2021.04.30地域歴史情報

南美唄・光珠内・峰延の歴史 -昭和前期編-

さて、前回は明治から大正までの美唄市南部エリアー南美唄・光珠内・峰延ーの歴史を紹介しましたが、そこから時代が下って昭和へ改元する頃には、軍事と石炭が主軸となって発展してゆくという締め括りをしました。
それでは、昭和に入ってからの歴史を追ってゆきましょう。

峰延駅構内

写真は昭和3年の国鉄峰延駅ですが、翌昭和4年には、最近ではゴールデンカムイでも有名な大日本帝国軍第七師団による秋季機動演習が峰延の近辺で行なわれ、その観兵式を参観する人々を輸送する際に峰延駅は『未曽有の盛況を見た』という記録が残されています。

日露戦争、シベリア出兵を経て、もちろんプロパガンダもあるでしょうが第七師団は当時の人々にとって大きな存在であったのでしょう。

昭和の峰延市街

同時期の峰延市街の写真です。米俵か樽を載せた大八車が道中に見えますが、大正時代とそう大きな変化は見て取れません。

昭和の光珠内の炭鉱

光珠内町の炭鉱住宅街

日露戦争を経て日中戦争に至るまでの帝国主義の時代、炭鉱開発は隆盛を極め、日石光珠炭鉱では当時最先端の炭鉱住宅やエンドレス軌道などが導入されますが、運営が軌道に乗ることはなく、昭和3年には三井炭鉱株式会社が事業を承継して三井美唄炭鉱が発足します。
昭和6年には石炭の搬出=出炭を目的として国鉄函館本線美唄駅から分岐して南美唄駅へと至る南美唄支線が開通します。

昭和の南美唄駅

美唄炭鉱入口

当初は石炭の搬出が目的とされていましたが、炭鉱労働者による利用のニーズもあった為、昭和17年には荷物の、昭和19年には旅客の取り扱いも開始され、一般駅となります。
ここで注意して頂きたい点として『荷物』と『貨物』の違いがあります。『貨物』とは石炭や木材をはじめ大口の…現在でイメージするのであればコンテナ輸送のような大きなもの、『荷物』は航空便の手荷物や小包などをイメージすると、完全に定義は合致しなくともイメージは近いのではないでしょうか。
国鉄駅の取り扱いで『旅客』と『荷物』と『貨物』が別個に出てくるので、気になる方は少し注意をして読んで頂ければと思います。

炭鉱住宅街の大通り

南美唄駅の設置や三井財閥の傘下に入ったこともあってか、三井美唄炭鉱の開発は進み、規格化された大量の炭鉱住宅と立ち並ぶ電線という非常に近代的な風景が広がることとなります。

昭和の美唄配給所

終戦間際の写真ではありませんが戦時下の配給所も天井が高く、吊り下げ電灯が煌々と輝いており、炭鉱労働は過酷で危険なものであったとはいえ、炭鉱の生活は経済的にはそれなりに豊かであった事が伺い知れます。

峰延市街の駅前通り

好対照な風景として、昭和15年峰延市街は、二階建てで三角屋根の木造建物が立ち並ぶ風景となっており、大正時代のものや昭和初期のものとさして変わり映えしません。
炭鉱から距離のある峰延駅周辺の発達がさほどではない事からも、インフラ開発が炭鉱に集中して行われていたことが分かるでしょう。

 

戦後、昭和23年昭和26年内務省地理調査所5万分の1地形図を合成したものを見てゆきましょう。

昭和20年代の美唄の地形図

前回紹介した大正期の地形図と比較するとそこまで大きな違いは見当たりませんが、昭和6年に設置された南美唄駅が新たに描かれ、その脇に『三井炭山』という文字が見えます。
画像右上側には『美唄原野』と記載されていますが、この辺りは『豊芦地区』『上美唄地区』と呼ばれており、当時はまさに原野という状況でした。

美唄原野と男性

いわゆる外地からの引揚者の方々が明治期のような掘っ立て小屋で開拓のために入植するという過酷な状況ですが、そういった苦労の甲斐あってか、現在ではハスカップが有名な農業地域となっています。

ハスカップ狩りの案内

ハスカップの実

ハスカップの収穫

現在の美唄市内にはハスカップ狩りの出来る観光農園が複数個所ありますので、峰延農協に問い合わせてみるとよいでしょう。

前掲の画像の通り、美唄市はハスカップ収穫量が日本一だそうです。

 

さて、混沌とした戦後の中で復興が模索される訳ですが、その中でも重要な位置にあったのは勿論、工業の要となる石炭です。
樺太、台湾、朝鮮半島、満州などのいわゆる『外地』から国内に戻った『引揚者』の一部は炭鉱労働者となり、炭鉱の町としての美唄を発展させます。
規模としては美唄エリアにあった美唄炭鉱の方が大規模でしたが、南美唄駅を中心とした美唄炭鉱もおそらくは美唄市街地からの距離の近さなどを長所として発展していったようです。

炭鉱住宅街

美唄炭鉱の積込場

南美唄駅周辺は炭鉱によって発展しますが、一方の平野部はどうでしょうか。
峰延は峰延駅が明治期からあったものの、美唄と岩見沢の境界に所在する関係で都市化はせず、農村として開拓が続けられましたが、かつての屯田砲兵隊が入植した光珠内は昭和初期に一時的に信号所が設置されたのみで戦後を迎えました。

昭和23年、国鉄函館本線に地元の人々にとって待望の光珠内仮乗降場が開業し、旅客のみの取り扱いが開始され、3年半後、昭和27年には仮乗降場から昇格して光珠内駅が誕生しました。

 

昭和28年には三井練炭美唄工場が設置され、南美唄駅の裏に積込場とそれに接続する積込線が設置されました。

美唄炭鉱の選炭場

このようにして石炭の採掘による戦後復興と、その為の設備投資が行われて炭鉱の街は発展してゆきました。

炭鉱住宅街の航空写真

炭鉱住宅街の夜景

これら昭和30年代前半の写真は整然と並んだ炭鉱住宅のピーク時の活況を伝えています。
特に、炭鉱労働者は基本的に三交代制での勤務となっている都合、夜中でも石炭火力発電によって供給された電力によって街は煌々と照らされており、これがある種、炭鉱の街の名物のように扱われることもありました。

このようにして炭鉱によって隆盛を極めた美唄市ですが、昭和30年代後半からは石炭から石油へのエネルギー革命が始まってしまい、大きく方向転換をすることを余儀なくされてしまいます。

昭和30年代後半から現在にかけての美唄市南部エリアー南美唄・光珠内・峰延ーの歴史は、次回以降紹介する予定です。
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細井 全

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇吉田初三郎『美唄市鳥観図』昭和27年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年

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南美唄・光珠内・峰延の歴史 -昭和前期編-

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