2021.09.02郷土誌から読み解く地域歴史情報

美唄市北部、『茶志内』の歴史 -明治編-

さて、北海道の2大都市である札幌市旭川市を結ぶ国道12号線JR函館本線の両方の中間点にある都市、美唄市の歴史についてはこれまでに何度か紹介をして来ましたが、今回は美唄北部にあるJR『茶志内』を中心とした茶志内エリアについて紹介してゆきましょう。

茶志内

『茶志内』チャシ・ウン・ナイ=砦のある川またはチャシ・ナイ=流れの速い川などが語源と言われています。
現代の標高図を見る限りでは、特に流れが速いという様子はないのですが、当時、どこか一ヶ所の急流などを指して命名されたものかもしれませんね。
南隣の駅は『美唄』、北隣は『奈井江』で、『奈井江』駅は奈井江町という別の自治体に所在していますが、言葉の響きが似ている『茶志内』は美唄市の一部です。

 

美唄の他の地域と同様に明治24年から明治27年にかけて、茶志内工兵隊が屯田兵として入植します。
美唄中央部は騎兵、南部は砲兵でしたが、北部の茶志内では工兵だったという事ですね。
工兵は土木建築を行なったり、通信を行なったりといった工作部門の兵科で、歩兵、騎兵、砲兵と併せて四大兵科というそうです。
ヤングジャンプで連載の漫画作品『ゴールデンカムイ』の登場人物『キロランケ』の所属は旭川の第七師団ではあるものの、兵科は工兵でしたね。
茶志内兵村は現在のJR函館本線茶志内駅の位置を中心に南北に広がる兵村でした。

 

北海道炭礦鉄道自体は明治22年時点で敷設されており、美唄駅明治24年に設置されていましたが、茶志内駅はこの時点で未開業であり、屯田兵達は美唄駅を北上して茶志内兵村の開拓を始めたとの事です。
ちなみに、明治24年には他にも峰延駅奈井江駅も開業しています。

 

少し時代を遡りますと、北海道炭礦鉄道の前身は明治13年に開業した官営幌内鉄道で、これは手宮(小樽)ー札幌ー岩見沢ー幌内(三笠)明治15年までに順次開業しており、北海道炭礦鉄道に経営が引き継がれた後にこれが幌内線とされ、上述の通り峰延駅、美唄駅、奈井江駅が開業し、その後、旭川まで延伸した路線が空知線と呼ばれることになりました。
幌内線と空知線の分岐は岩見沢駅で行なわれたので、交通の要衝となった訳ですね。

北海道屯田倶楽部『歴史写真屯田兵』平成元年 127ページより引用

屯田兵では、家ごとに大きな道路の両側に一定面積の敷地を与えられ、そこに屯田兵屋を構えるほか、田畑を耕作して一家で過ごしてゆくわけですが、茶志内屯田兵村の場合には、上川道路の両脇を中心に土地が割り当てられました。

北海道屯田倶楽部『歴史写真屯田兵』平成元年 126・127ページより引用

茶志内兵村工兵隊の集合写真を見てみましょう。

北海道屯田倶楽部『歴史写真屯田兵』平成元年 124ページより引用

西洋の海兵のセーラー服に似た白い軍服とベレー帽に似た帽子と背嚢(ランドセル)の服装は、屯田兵を知る人にとっては少し違和感があると思います。
屯田兵を知る人にとっては黒い詰襟と軍帽の旧大日本帝国軍の一般的な軍服のイメージが強いでしょう。

北海道屯田倶楽部『歴史写真屯田兵』平成元年 9ページより引用

しかし、旧日本軍に限らず、全世界的に兵科ごとに定められた『兵科色』(へいかしょく)というものがあって、工兵の兵科色は明治19年までは、それ以降は鳶色(ブラウン)であったとされています。

へー、そんな決まりがあったんですねー、だから白い服を着ているのかー・・・と、納得する訳にはいかないんですね。
何故なら、茶志内屯田兵村への入植は明治19年の兵科色より後の明治24年以降ですから、この白い軍服は年代的には矛盾するんです。

北海道屯田倶楽部『歴史写真屯田兵』平成元年 124ページより引用

水場での水雷爆破演習の写真でも白い軍服となっており、モノクロ写真であってもブラウン系統の鳶色と見間違う可能性が低いと思われます。

大日本帝国軍の情報をインターネットで検索したり、屯田兵関係の資料を見ても軍帽やズボンだけ白いものはあっても、茶志内工兵隊と同様のデザインは見当たっていません。
どういう事情でそうなったのかは分かりませんが、専用のデザインの軍服を纏った工兵隊とは、いかにも軍の特殊部隊という感じで、カッコいいですね。

 

屯田兵の入植が終わった2年後の明治29年には、茶志内尋常小学校が設置。それまでの間も私立学校(教育所)はあったようで、教育に熱心な集落であったことが伺い知れます。

さて、明治29年測量、明治42年部分修正の大日本帝国陸地測量部の5万分の1地形図を見てゆきましょう。

大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図(『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正)

上川道路現在の国道12号線と鉄道線路が並行して走っているのは現在と同じですね。
ここで『鉄道線路』とボカして表現したのは、明治39年北海道炭礦鉄道が鉄道国有法よって買収されて国有化しており、明治42年には国鉄函館本線と名付けられますが、そのように名付けられる以前は、北海道炭礦鉄道の頃と同様に空知線と呼ばれていました。
上川道路に掛けられる橋には南から順に番号が振られていますが、茶志内周辺には十二号橋十三号橋があります。
また、地図の下部にはサンケピパイの表記があり、これは現在、産化美唄川と表記されています。
産化美唄川は西側に流れてゆき美唄川と合流した後すぐに石狩川に流れ込みますが、東側の上流にはサンクワ美唄という地名があるほか、中腹には聖化溜池という簡易ダムが戦後に整備されたようです。
これらの名称について、郷土史やインターネットで詳細に由来が語られている資料には見当たっていませんが、恐らくサンケ=産化≒サンクワ≒聖化は同一の語源から転訛したものではないかと思われます。
ただ、茶志内自体も田園地帯であり、産化美唄川の上流も殆ど開発が進んでおらず、その由来についても詳細が記された資料は見当たっていません。
『サンケピパイ』のうち、『ピパイ』については、『ピパ』がカワシンジュガイやカラス貝、ドブ貝などの淡水生の貝類を意味し、『イ』は居る場所=多く取れる場所という意味です。
では、『サンケ』はと言うと、アイヌ語辞典によると『~を(前に)出す』という意味との事で、これは三毛別熊事件で有名な三毛別=サンケペツと同じ単語のようです。
これを踏まえると『淡水の貝を多く出す川』となるのかな、という所ですが、『ピパイ』を一つの地名・固有名詞として捉えると『ピパイへ(水を?)出す』と捉えることも出来るかもしれません。

また、この頃には地元住民の間では停車場=駅の設置の要望があったようですが、駅の設置には至っていません。

北海道屯田倶楽部『歴史写真屯田兵』平成元年 125ページより引用

こちらは明治末期の上川道路のうち茶志内の法王寺付近で撮影されたとされる写真です。
上川道路の幅は当初明治19年の仮道路の段階で1間≒1.8m、翌明治20年の本整備で3間≒5.5mになったという記録がありますが、この部分については、人物との対比を考えると(明治期で成人男性が小柄であると仮定しても)道路の幅は6間≒9・09m程度でしょうか。
記録に残されている3間の幅というのは入植されていない原野部分も含んでのことですから、屯田兵の入植があり、それなりに開拓が進んでいたこのエリアの道路幅員がそれなりに広いのは当然のことと言っていいかもしれません。
撮影地点となった法王寺は現在も美唄に所在している浄土真宗本願寺派の寺院で、前掲の地形図では画像上部付近の上川道路東側に所在しています。

上川道路東側

明治期の茶志内は鉄道路線と上川道路という2つの交通インフラは開拓当初から揃っており、屯田兵の工兵隊が設置され、順調に開拓は進んでゆきますが、駅はまだ設置されていません。
茶志内駅は大正期に設置されることになりますが、それによって茶志内の姿はどのように変わってゆくのでしょうか、次回以降紹介してゆく予定です。

 

空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購入・賃貸・管理についてのご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

 

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇吉田初三郎『美唄市鳥観図』昭和27年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年

このブログへのお問い合わせは

美唄市北部、『茶志内』の歴史 -明治編-

美唄店 赤井 圭一出会うお客様は一人一人違う想いを持っていらっしゃると思います。それぞれのお客様に共感し、最後には「任せて良かった」とご納得していただける様日々取り組んで参ります。 空知エリアの不動産に関する事は私にお任せください。

  • 美唄市北部、『茶志内』の歴史 -大正・戦前編-
不動産売却の手引き
電子ブックはこちら
空き家対策ガイドブック
PDFダウンロード
ご相談
お問合せ
無料査定