2019.08.23郷土誌から読み解く地域歴史情報

小樽市『桂岡町』の成立と北海道薬科大学

終戦後、昭和30年代まで北海道開道以来、大きな発展を見せない農村であった『十万坪』に大きな転機が訪れます。

十万坪の古い航空写真

戦後、高度経済成長期を前にしたこの頃、北海道では住宅不足が叫ばれます。
第一に、昭和41年開催のIOCで昭和47年札幌オリンピック開催が決定し、冷戦の影響もあり札幌近郊の経済発展がある種の国策となっていたこと。

第二に、戦後復興の策として、宅地開発や住宅建築が積極的に進められ、『公庫』=住宅金融公庫による貸し付けで住宅取得がトレンドとなっていたこと。

第三に、『外地』(満州、台湾、朝鮮、樺太など)からの引揚者が北海道に多く流入し、住宅不足が顕著化したこと。特に小樽では樺太からの引揚者が多かったようです。

第四に、石炭→石油のエネルギー革命によって炭鉱労働者の雇用が減少し、他の自治体へ流入しはじめていたこと。

 

このような複合的な要因から、北海道各地で宅地造成が始まり、札幌市でも各地に分譲宅地が造成されてゆきます。現在の石狩市や北広島市、江別市でも同様の動きが見られました。

小樽市でも住宅不足が盛んに叫ばれるようになりましたが、小樽の中心部はわずかな崖地と埋立地からなる限られた土地しかありません。
必然的に、郊外の土地を開発しなければならない訳ですが、それにも別の悩みが存在します。

この頃に開発されたエリアとしては桂岡町の他、オタモイ、高島、緑、祝津、朝里などがあります。

戸建住宅地が造成されたものもあれば、いわゆる『団地』として賃貸の市営住宅が建築されたものもあります。
桂岡町は銭函と並んで、小樽市の中で最も札幌市に近いエリアですから、小樽市議会では札幌のベッドタウン化するのではないかという懸念が指摘されていたそうです。

札幌のベッドタウンとなってしまっては、税収や小樽市内の産業の振興という意味でも、多額の費用を掛けて造成事業をする事に疑問符が付いてしまいます。

 

さて、そのような経緯がありながらも昭和42年10月桂岡地区宅地造成事業が始まります。
これは、『十万坪』を『桂岡町』に改称して19万8000㎡の宅地造成し、市営住宅や住宅供給公社住宅、そして分譲宅地とするというものです。

昭和43年には実際の造成工事に着手、昭和43年度は45,680㎡119区画、昭和44年度は88,725㎡97区画、昭和45年度に71,479㎡151区画、合計205,884㎡367区画が造成されます。
道路や公園を含まない分譲地の面積ですから十万坪とは行きませんが6万5千坪といったところですね。
これらの区画は区画が昭和44年~昭和47年にかけて1区画は約85坪で坪単価は1万円程度…総額85万円程度で分譲されました。
価格帯は労働者層にとってはやや高めだったとの事で、当初は苦戦したようですが、札幌オリンピック前後の住宅取得ブームもあり、4年間で完売したとの事です。
また、分譲住宅地以外には、昭和44年に22戸、昭和45年に48戸、昭和46年に48戸と、3年間で118戸の市営団地が建設されました。
桂岡団地の当時の計画図を見てみましょう。

桂岡団地計画図

札樽国道『国道5号線』交差点からは若干距離がある事が分かります。

また、ここに記載の『札樽バイパス予定ルート』はのちの開通し、更に昭和48年には『札樽自動車道』として高速道路へ格上げされます。

札樽国道『国道5号線』

計画図では15kmも山側に登った場所、と記載されていますが、交差点からそれだけ離れると、桂岡町の最奥、銭函浄水場まで行ってしまいますから、これは150mの誤りなのではないか、と考えています。

銭函浄水場

宅地造成が進んでいく中で、札幌市豊平区中の島で自動車学校(運転免許取得だけではなく、整備士の養成育成も含む)を経営する学校法人自動車学園昭和49年1月に北海道薬科大学の設立認可を得て、同年4月に開学。

これは、当時の北海道内には北海道大学以外の薬学部がなかったという事情で、北大出身の薬剤師は道外へ流出していた為、北海道の薬剤師不足を解消する目的で設置されたものです。
第一校舎は鉄筋コンクリート造5階建て、延べ15,083.07㎡で建築に3年かかったそうです。
翌年以降も第二校舎や体育館、図書館などが次々と建設されてゆきます。(平成5年に建設された図書館が最後に建築された建物という事です。)
昭和50年には自動車学園は法人名を学校法人北海道尚志学園と改称します。

北海道薬科大学

薬科大学開学の1ヶ月後、昭和49年5月には大学の下、小樽市の分譲地と国道5号線の間に北海道都市開発事業協同組合が20ヘクタールの団地を造成し、430区画を造成する『小樽市桂岡ニュータウン』の起工式が行われます。

前述の国道5号線から小樽市が造成した団地までの空白地帯を埋めたような形ですね。
北海道都市開発事業協同組合は地場のハウスメーカーや工務店、不動産業者の連合体で、北海道の他地域でも現在まで多数のニュータウンを手掛けています。

 

このように10年足らずの期間で一気に分譲造成地が開発された後の、昭和50年代の航空写真と地形図を見てみましょう。

昭和50年代の航空写真

昭和50年代の地形図

北海道薬科大学が設置され、住宅が多く立ち並んでいる様子が分かりますね。
これらの資料ではまだ建設されていませんが、昭和52年には小樽市立桂岡小学校が開校。

1980年代の航空写真

住宅街は札幌にほど近いという事もあり、札幌市・小樽市双方のベッドタウンとなり、北海道薬科大学の学生をターゲットとしたアパートなども運営されました。
また、山の上には多くの公営住宅(団地)が設置され、色々な所得層のミックスを図ったものと思われます。

平成の航空写真

しかしながら、昭和40年代に一気に造成されたエリアであるため、どうしても年齢層が被ってしまった他、高齢化が進んでゆきます。

また、桂岡町の一大ランドマークである北海道薬科大学にも転換が訪れます。
平成26年には学校法人北海道科学大学に法人名変更、平成27年には北海道薬科大学を札幌市手稲区に移転してしまいます。
その後、平成30年には北海道薬科大学は北海道科学大学へ統合され大学の実態もなくなってしまいました。

北海道科学大学の看板

北海道科学大学のゲート

尚志学園…現在の北海道科学大学としては、手稲区に新しいキャンパスを設け、ブランドイメージを統一することで経営を合理化して集客率を上げる意図があったものと思われますが、これが桂岡町に与えたダメージは大きかったと言わざるを得ないでしょう。

そして、小樽市本体の財政赤字も桂岡町に追い打ちを掛けます。
小樽市では少子高齢化に伴い小中学校の統廃合を進めていますが、前述の桂岡小学校も将来の廃止が検討されています。

 

しかしながら、札幌市に近い好立地と銭函と異なり区画整理された街並みであること、集中プロパンガスが敷設されている事などから、桂岡町は薬科大学が移転して逆境という見方もあるものの、潜在的にはニーズのあるエリアと判断しています。
そのあたりのお話は以前の記事『⼩樽市『桂岡町』はこれからが旬・今が買い時?』をご覧下さい。

 

当記事は小樽・後志エリアで1283件(平成24年1月1日~平成30年12月31日実績)の取引実績を誇るイエステーション小樽店:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
桂岡町をはじめとした後志エリアでの不動産売買は豊富な取引実績を持ち、小樽・余市・手稲・石狩に店舗を有しフットワークの軽いイエステーション:北章宅建株式会社への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇堀耕『銭函の話』平成5年
◇有限会社北海道新聞中販売所『小樽・朝里紀行』平成30年
◇小樽市役所『小樽市史 第九巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第十巻 文化編』(新版)平成12年
◇大日本帝国陸地測量部 五万分の一地形図『銭函』明治29年測量
◇大日本帝国陸地測量部 二万五千分の一地形図『銭函』大正5年
◇内務省地理調査所 二万五千分の一地形図『銭函』昭和25年
◇国土地理院 二万五千分の一地形図『銭函』昭和53年
◇国土地理院 航空写真各種

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小樽市『桂岡町』の成立と北海道薬科大学

小樽店 小林 康之不動産業に携わる者として公正で安全な取引を心がけ、お客様の立場に立って最善の方法をご提案いたします。 一緒に住まいの華を咲かせましょう。

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