2020.01.17地域歴史情報

『ガッカリ沢』から小樽の観光名所となった場所と歴史とは?

人間、誰しもガッカリはしたくないものですが Googleで『ガッカリ』と検索すると『がっかり観光名所』というサジェストが表示されます。

誰が呼んだか『日本三大がっかり観光名所』と言うものがインターネット上で話題になってからしばらく経ちますが、果たしてその三大名所がどこなかのかと言えば高知の『はりまや橋』、長崎の『オランダ坂』そして札幌の『時計台』です。ご存じの方も多いのではないでしょうか。

 

そして、小樽にはかつてガッカリ沢と呼ばれていた場所があるのです。ご存じの方はほとんどいないのではないでしょうか。

そして、そのガッカリ沢は現在はがっかりどころか、それなりに人気のある観光地となっているのです。

今回はこのガッカリ沢についてその歴史を紹介してゆきましょう。

ガッカリ沢地形図(明治29年測量)

これは最も古い地形図、大日本帝国陸地測量部明治29年に測量し加筆修正を加えた上で明治42年に発行したものです。

ガッカリ『沢』というだけに山に山の間の谷地に流れる川が見て取れますが、それ以外に人家がある様子もなく、純粋に山の中に流れる川しか描かれていません。

今回は、もしよろしければ『ガッカリ沢』については検索せずに、『ガッカリ沢』が現在のどこなのか予想しながら読んでいただければ幸いです。

後ほど『ガッカリ沢』というワードで検索していただけるとよく分かりますが、検索結果のほとんどがそこで産出されたという明礬石(みょうばんせき)に関する地質・鉱物に関するものばかりで、ガッカリ沢について詳しく書かれたものは存在しません。

 

ですから『ガッカリ』という言葉の由来が記載された資料についても今のところ見当たっていません。

ただ、北海道のカタカナ地名というのは往々にしてアイヌ語由来ですから、ガッカリ沢についても同様だと思いますが、ぴったりと合う単語は見当たりません。

ガッカリに転訛しそうな単語をアイヌ語辞書から拾い出すと、カム・カル(肉・作る)、カマ・カニ(岩盤・金属)、カマ・カイ(岩盤・強い)辺りが候補となりそうです。

川には動物が集まりますから、この周辺はヒグマやエゾシカの狩場となっていたのではないかと思いますし、猟で捕らえたものはすぐに血抜きして冷やした方が味も良く、日持ちがすると言われていますので、ガッカリの語源としてはカム・カルが有力なのではないかな、と考えています。

また川というのは時間をかけて表面の土や柔い地盤を削るので河川の周辺では固い地盤が露出しやすい傾向にあります。それによって希少金属などの鉱物が産出されることもありますので、カマ・カニやカマ・カイという可能性もあります。

魚類のコマイ(氷下魚)をカンカイと呼ぶそうですが、これも語感としては近いのですがコマイは海水魚ですから内陸のこの周辺とは関係がないでしょう。

 

さて、ここまで殆ど白黒の画像と文字にわずかな赤文字があるだけの彩りのない記事になってしまっていますが、まだまだモノクロ記事は続きます(∩´∀`)∩

ガッカリ沢地形図(大正5年)

さて、こちらは時代が下って大正5年の地形図です。

ガッカリ澤』という記載が出てきました。上には『石倉』、左上には『牛馬組合牧場』と記載されています。

ここで現在も残る地名『石倉』が現れました。

石倉とは小樽市新光町に所在する山岳、石倉山です。

新光町という地名に馴染みのない方もいるかもしれませんが、新光町朝里エリアにある小樽市新光のうち、東側の市街化調整区域であり、西側には張碓町春香町が隣接します。

 

さて、ガッカリ澤以外で記載されている残りの地名『牛馬組合牧場』ですが、これがどのような組合だったのか、小樽市の年表にそれらしい名前はあるものの、細かな記載は見当たっていません。

『小樽・朝里紀行』という郷土史によると、昭和の時代にこの周辺にシャロレー牧場というシャロレー牛という品種を生産する牧場が短期間存在していたようですが、直接的関係は不明瞭です。

 

さて、ここまでの記載で『ガッカリ沢』がどこなのか、お分かり頂けたでしょうか?

石倉山の南側、前掲の大正5年地形図の中央下部には山間に流れる川の部分に『朝』という文字が見えますが、実はこれは『朝里川』の一部分なのです。

朝里川、というと、JR函館本線の『朝里駅』の上流に所在する朝里川温泉という地名があります。

実はこのガッカリ沢、朝里川を中心に東西を囲う渓谷であり、西側が現在の朝里川温泉1丁目、東側が現在の朝里川温泉2丁目となっています。

で、もっと言いますとこのガッカリ沢、実は現在の朝里ダム朝里ループ橋にあたる場所なんですね。

朝里ループ橋

札幌と小樽を結ぶ道は、大きく分けて2つのルートがあります。

海側を通って札幌市西区・手稲区から銭函、張碓、朝里を経由して小樽市街に向かうルートは国道5号線と高速道路:札樽自動車道によって結ばれています。海側のルートはかつて軍用道路であるとか国道4号線と呼ばれた時期もあります。

現在でも小樽と札幌を結ぶ道といえば海側のルートですが、もう一つあるのが山側のルートです。

山側は札幌市南区の最奥地である温泉地、定山渓温泉と朝里川温泉の温泉地同士を結ぶ道道1号線であり、朝里ループ橋はこの道路の一部となっています。

道道1号線『小樽定山渓線』の沿線には小樽側から朝里ダム札幌国際スキー場定山渓ダムがあり、温泉街と温泉街、ダムとダムを結ぶ道路ということが出来るでしょう。

札幌市の中心部から定山渓までが一時間以上かかるということもあり、また山間を通る道はカーブが多く車線も少ない為、スキーや温泉の愛好者によく利用される道路であって、それ以外の方にはさほど利用頻度が高くないように思われます。

この道路がいつから出来たのかと言えば、その歴史は非常に古く、実は定山渓温泉の開祖である美泉定山(みいずみ・じょうざん)氏が通ったのが始まりです。

定山渓の名前の由来となった美泉定山氏ですが、元々は江戸時代:文久元年から張碓村に逗留し、近隣の銭函村や熊碓村への布教を行なっていましたが、朝里川上流の山奥に温泉があるという話を聞き、山奥を探検して定山渓を発見し、私設の湯治場を設置しました。

実は、定山渓は札幌ルートよりも小樽ルートの方が歴史が古かったのですね。

道なき道を直線距離で優に直線距離20km以上も分け入って湯治場を作るというのは途方もない話で、むしろ病気が悪くなってしまいそうです。

その後、明治4年には本願寺道路・・・現在の国道230号線の開削に伴って、美泉定山氏は明治政府から定山渓の湯守に任じられます。

この頃になってようやく札幌ルートが整備され始めた訳ですが、この頃はまだ小樽の方が都市の規模が大きかった訳ですから、定山渓温泉を整備するにあたっても、小樽との間を結ぶ道は重要となります。

明治9年には美泉定山氏が札幌の実業家の助けを得てこの道路の測量をしたものの、翌年には美泉定山氏が亡くなってしまい、結局の処、きちんとした道路は通らなかったようです。

美泉定山氏の亡き後も、定山渓温泉の開発は進められて拡大し、正確なデータはないものの少なくとも大正7年定山渓鉄道が開通してからも札幌からよりも小樽からの湯治客の方が多かったのではないか、と言われています。

なお、朝里川温泉はまだ発見されておらず、戦後まで開発は進んでいませんので石狩・後志エリアの温泉地といえば、長らく定山渓温泉であったのです。

 

このようにして現在の道道1号線は小樽と定山渓温泉を結ぶために拓かれた道だった訳ですが、大正時代にはもう一つの役割が課されます。

それが水源地としての朝里川の維持管理のための道でした。

明治末期から整備が始まり、大正3年に通水が開始した奥沢浄水場は、当時から現在まで小樽市内・・・特に中心部の給水需要の多くを満たしていますが、小樽は東西に細長く伸びた市域を持ちますから、そのすべてに給水をするのは困難を極めます。

小樽の地図(明治39年頃)

上記の地図のうち、小樽区と朝里村は同じ『小樽郡』に属していましたが、塩屋村は忍路郡、高島町は高島郡とそれぞれ別の郡に属していました。

そして、大正11年には小樽区と朝里村が合併し、小樽市が誕生します。
つまり、小樽市は自治体として旧朝里村エリアにも給水の責任を負うこととなったという訳です。

 

奥沢浄水場の給水対象のとなる人口は大正初期では10万人を限度として計画をされていましたが、小樽ではかなりの勢いで人口が増えて来た上に寄港する船舶への給水需要も増加していたため、大正後期には早々に水不足が生じる恐れが生じてきました。

その為、奥沢浄水場とは別に旧朝里村エリアへの給水の為に朝里川にも水源地を設けることを計画し、合併と同年の大正11年から工事に着手しました。

これを小樽市における水道の第一次拡張工事と言い、この時に小樽市議会に提出された拡張理由書には『新設水源ノ位置ハ北海道小樽郡朝里村「ガツカリ」沢地内朝里川』と記載されています。

工事の開始から4年後の昭和元年には朝里川上流に朝里浄水場が整備され、旧朝里村エリアへの水道の供給が始まります。

朝里水源地取入口工事

さて、水道については一旦ここまでとして、道路の整備のお話に戻りましょう。
明治期に道路の整備が進まず、大正を経て50年ほど手が付けられていなかった現在の道道1号線ですが、昭和に入ってから開発が進むことになります。

のちに地崎組の二代目社長=二代目地崎宇三郎となる地崎晴次氏が戦前の昭和一桁の時代に小樽・定山渓温泉間のルートを結ぶ有料道路の建設とそこを通るバスの運行を計画します。

地崎組と言えば札幌を拠点に昭和期に全盛を誇った土建業者で、法人化、地崎工業への商号変更を経てのちにバブル崩壊などもあり平成19年に岩田建設に吸収合併され、岩田地崎建設株式会社となる組織です。

池崎組本店

この地崎組、関東で言うところの西武や東急のような存在で、宅地造成事業や文化事業など、様々な事業を手掛けていました。

平成21年に閉園してしまった札幌市中央区伏見3丁目にあったちざきバラ園なども有名でしたが、こちらは二代目の晴次氏ではなく、三代目地崎宇三郎となる地崎九一氏が開園したものです。

このような多角化経営の一環として、二代目地崎宇三郎=地崎晴次氏はこの前段階で小樽高架電気軌道という名称の小樽モノレール計画があったのですが、こちらが頓挫したことで、定山渓との有料道路・バス運行を試みることになります。

小樽モノレールについてはいつか紹介する機会があるかもしれませんが、地崎晴次氏はかなり奔放な方で、以前に独断で手掛けた事業(大規模農業)の失敗によってこの時点で禁治産者にされた上で地崎家から勘当されています。

 

昭和5年地崎晴次氏は小樽定山渓自動車道株式会社を資本金40万円で設立して地崎組に依頼の上、この有料道路を着工、昭和7年に完成しました。

なんと、勘当されているのに当時地崎組を経営していた父の初代地崎宇三郎氏に直談判の上、地崎組に工事を依頼するという大胆さ、更に晴次氏はその工事代金を支払わず、その代償として晴次氏が持つ小樽定山渓自動車道株式会社の株式はすべて地崎組に取り上げられています。

禁治産者がどのようにして会社を設立する資金を得られたのかは分かりませんが、勘当された父親の会社に工事を依頼して、その代金を踏み倒すという荒業をやってのけるのですから、初代も息子に対してかなり甘かったのでしょうし、二代目も色々な意味で『やり手』だったのでしょう。

地崎組直系の法人であって現存する地崎商事株式会社さんや、地崎工業の合併先である岩田地崎建設株式会社さんとはお付き合いもあるので非常に言いづらいのですが・・・

割とどうしようもないな、この人(; ・`д・´)

まぁ、西武グループの創始者の堤康次郎氏の逸話に比べれば大した話ではありませんし、現代でも億万長者になった経営者が一般常識とはかけ離れた奇行を晒すことはありきたりの事ですから、晴次氏が取り立ててどうだと言うことも出来ないのかもしれませんが。

 

さて、そのようにして朝里川に沿って山中を整備して切り開いた有料道路ですが、南小樽駅(大正9年に小樽駅から改称)から1日5往復のバスが運行され、所要時間としては片道1時間程度で定山渓に至ったそうです。

札幌を経由するルート、つまり国鉄と定山渓鉄道を乗り継ぐ場合には2~3時間を要したという事ですから、小樽から出向くには大幅な時間短縮となります。大正後半で札幌に人口が抜かれたとはいえ、人口が多く裕福な商家も多かった小樽方面からの湯治客は相応に多かったとの事です。

有料道路ですから、地崎組関連以外の車も通行することは出来たものの、他のバス会社などからは通行料を徴収していたようです。(自家用車などは一般には殆ど普及していない時代です。)

 

昭和11年には初代地崎宇三郎氏の逝去に伴い、晴次氏が二代目を襲名、この時点でも勘当は解かれていませんでしたが、何だかんだで有耶無耶になり、家督を相続したようです。(地崎工業の社史ではこれまでの非礼を詫びたと書かれています。)

これによって晴次氏改め二代目宇三郎氏は地崎組と小樽定山渓自動車道の両方を手中に収める事になります。

そこからは当代の社長自らが創業した事業ということもあってか、この事業について、細かく書かれることはなく、昭和17年戦時下で観光需要が縮小した為に道路を閉鎖し会社も解散して、残された道路は地崎組に移管された事が記録されています。

開業から間もない昭和12年の時点で支那事変≒日中戦争が勃発していますから、率直に言って、それ以前から業績は芳しくなかったのではないかな、と考えています。

書籍でのソースは見当たっていませんが、一般社団法人北海道バス協会がインターネット上で公開する沿革で、昭和12年小樽市街自動車株式会社に経営を委託、昭和15年には燃料不足や不採算を理由として運行休止をしたとの記載があり、小樽市史などの記載よりも2年も早く商売をやめていたようです。この辺りは地崎工業の社史なども精査する必要がありますね。

 

さて、明治~戦前の朝里川上流、朝里ダム周辺の事情は以上のようなものですが、戦後11年が経過した昭和31年の地形図を示し、次回へ繋げる事にしましょう。

ガッカリ沢地形図(昭和31年)

戦後もしばらくは『ガッカリ沢』と呼ばれていた事や、大正末期から昭和初期に整備された水源地、朝里貯水池が記載されています。

戦後~平成にかけては本記事の途中で紹介した朝里ダムの整備や、 小樽定山渓自動車道が解散した後、どのようにして道道1号線になってゆくのか、まだまだ紹介するべきトピックスは山積していますのでお楽しみにして頂ければ幸いです。

 

当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
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細井 全

【参考文献】
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第7巻 ⾏政編(上)』(新版)平成5年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第8巻 ⾏政編(中)』(新版)平成6年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第9巻 ⾏政編(下)』(新版)平成7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇⼩樽市『未来のために=⼭⽥市政3期12年をふりかえって=』平成24

◇有限会社北海道新聞中販売所『小樽・朝里紀行』平成30年
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『銭函』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『銭函』大正8年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『張碓』昭和31年
◇スミレ商会『札幌市制紀念人名案内図』大正11年
◇一般社団法人 北海道バス協会『北海道バス事業の歴史目次』
http://www.hokkaido-bus-kyokai.jp/about/rekishi/reki1.html

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