2019.08.21郷土誌から読み解く地域歴史情報

小樽市『桂岡町』が旧称『十万坪』だった頃

さて、今回は薬科大学が撤退してしまった小樽市桂岡町の歴史を紹介してゆきましょう。

実は、桂岡町というのは戦後になってから開発が始まった非常に歴史の浅いエリアです。

おそらく、戦前から人の定住はあったのですが、公的な記録は殆ど残っていないというのが現状です。

 明治29年大日本帝国陸地測量部が作成した地形図を見てみましょう。

これは明治40年代になってから改変されてしまっている(しかも改変前の原版がない)ので、正確に明治29年の状況を示しているものではありませんが、まぁ明治後期の貴重な地図資料です。

明治後期の地形図

左上にある『(リ)スウワ』は右から読んでハリウス=張碓のことです。

中央の『禮文塚』は現在も銭函と張碓の間を流れる礼文塚川のこと、その右の『歌棄』は現在は殆ど使われていない地名で、過去にあり現在は寿都町になっている歌棄村とは別モノです。
これらの下部、画像の中央は現在の桂岡町のエリアにあたりますが、ここには『拾万坪』と記載されています。

そう、『十(拾)万(萬)坪』こそが桂岡町の旧称なのです。

この、十万坪の由来については色々と調べましたが、インターネット上でも堀耕さんという方が作成し、市立小樽図書館に所蔵されている手書きの本『銭函の話』に書かれているこのような文章を根拠にしています。

(以下、引用)

『桂の木が多くあるのでこの地名がつきました。昔は「十万坪」といわれておりました。「十万坪」とは「広い土地」という意味もありますが。開拓当時に開拓したならば「十万坪」まで提供するというお触れ書きから、このような地名ができたといわれています。現在バス路線に「十万坪」という地名が残っています。』

(以上、引用おわり。下線は筆者による。)
つまり、開拓使が『十万坪まであげるよ』と言ったというのですが、この文章に関するはっきり言って信憑性は薄いと考えています。

10万坪というとだいたい33ヘクタール=33万㎡ですが、それだけの土地を開拓出来るという前提は荒唐無稽と言うほかありません。

札幌(当時の豊平町)の大地主、阿部与之助氏が大量の小作人を使って保有した土地の総面積は最盛期で約42万坪との事ですが、これは山林のまま保有していた11万坪を含みます。
切り開かれた後の現在の桂岡町の面積を概算すると、だいたい100万㎡≒33万坪になります。当然、戦後の技術で造成をして33万㎡という事は、当時、農業の為に利用出来た用地はもっとずっと少ないでしょう。
事情を総合的に考えると、入植者を募るための宣伝文句として『十万坪あげるよ』はありえなくはないのかもしれませんが、どちらかというと、明治当時のこの辺りの総面積が十万坪だった、という方が自然に思えます。

 

余談ですが、バス停の他にも町内会館にも『桂岡十万坪会館』という名前が残っています。

桂岡十万坪会館

十万坪の由来についての考察はこの辺にして、地図を見ると、かなり等高線が折り重なった高低差の激しい土地であることが分かりますが、そんな中でも水田が多く見られ、ちらほらと果樹があったようです。
この高低差を見るに棚田のような形式をとっていたのかもしれません。

 

さて、次に大正5年発行の地形図を見てみましょう。

大正5年発行の地形図

こちらは『十萬坪』という表記になっていますね。
西側の礼文塚川と東側の銭函川に挟まれた一帯で、やはり高低差が多く、明治の地形図では破線だった南北の道路『十万坪線』が実線として太く表記されています。
他にも、『十万坪線』から分岐していくつかの道が破線で記載されています。
水田の地図記号が見られますから、この頃も農業の主力は稲作であったものと思われます。

そして『十万坪線』の北端に接続する、小樽と札幌を結ぶ道路には『軍事道路』と記載されています。(『軍用道路』とも呼びます。)

これは明治37年日露戦争を受けて明治38年にロシア対策として小樽が札幌から孤立させない目的で整備されたものです。

明治40年には国道42号へ昇格、大正9年には国道4号線に改称され、『札樽国道』と呼ばれるようになります。
礼文塚川を渡る部分は一度川岸に下りる為に大きく迂回しています。
せっかく整備された軍事道路ですが、非常に道が悪く、人や馬が川に滑落してしまう事故も多発していたようです。
そして、十万坪は農村地区のまま昭和20年の終戦を迎えます。
戦後、昭和25年の地形図を見てみましょう。

昭和25年の地形図

戦後の地形図も大正のものと大差はありませんが一つだけ異なるのは国道4号線『札樽国道』が礼文塚川を渡る部分が直線化されています。
昭和12年の日中戦争=志那事変を前にした昭和6年から昭和9年にかけて札樽国道の大改修が行われ、自動車輸送の利便が図られました。
そして、昭和27年には『国道4号線』から『国道5号線』に改称されます。

大正から戦後にかけて、札幌と小樽の間にあり、漁業の町、銭函の山の手側にある『十万坪』は農村として特段の発展を遂げないまま存在し続けます。
最後に昭和30年代後半の航空写真を見てゆきましょう。

昭和30年代後半の航空写真

昭和20年の地形図と見比べて大きく異なる部分はありませんが、『十万坪線』の南端部分に銭函浄水場が建設されていることがわかります。

銭函浄水場表札

銭函浄水場建物

建物は当時のものと同一かどうかまでは分かりませんが、老朽化している様子が伺えます。
写真右奥は逆パラソル型の雨水集水装置でしょうか。
現在も桂岡町を始め、銭函や張碓などに水道供給を行なっているそうです。

 

さて、明治・大正・昭和を通してここまでの100年以上の間、『十万坪』は大きな発展を見せず、小規模な農村であった訳ですが、昭和40年代、その姿を大きく変えることになりますが、それはまた別のお話。
次回は昭和40年代に入ってから続々と開発され『十万坪』から『桂岡町』へ生まれ変わってゆく経緯を紹介してゆきます。

 

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細井 全

【参考文献】
◇堀耕『銭函の話』平成5年
◇有限会社北海道新聞中販売所『小樽・朝里紀行』平成30年
◇小樽市役所『小樽市史 第九巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第十巻 文化編』(新版)平成12年
◇大日本帝国陸地測量部 五万分の一地形図『銭函』明治29年測量
◇大日本帝国陸地測量部 二万五千分の一地形図『銭函』大正5年
◇内務省地理調査所 二万五千分の一地形図『銭函』昭和25年
◇国土地理院 二万五千分の一地形図『銭函』昭和53年
◇国土地理院 航空写真各種

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小樽市『桂岡町』が旧称『十万坪』だった頃

小樽店 小林 康之不動産業に携わる者として公正で安全な取引を心がけ、お客様の立場に立って最善の方法をご提案いたします。 一緒に住まいの華を咲かせましょう。

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