2019.10.11地域歴史情報

小樽市誕生の経緯1 ~3つの郡と2つの地域の合併の歴史~

小樽が北海道でも有数の歴史ある街であることは、北海道民であれば小学生でもよく知っている事実です。
江戸時代、松前藩の場所請負制の舞台として、北前船との交易を行なっていた函館、余市、釧路、根室、苫小牧などの寄港地の中で、特に重要な拠点となっていました。
京都の名物として『ニシンそば』などのニシン料理がありますが、これは海産物の流通が難しい内陸の京都において、北前船の運ぶ『身欠きニシン』の甘露煮が京都では貴重な海産物であったことに由来しています。
小樽一帯を含む後志半島ではニシン漁が盛んであり、それを加工した身欠きニシンや金肥が生産、出荷されていました。

北海道後志国小樽港湾図

江戸時代から北海道の物流の中心地のひとつであった小樽市は昭和前期までの間、札幌と並んで北海道の中心地であった訳ですから、その歴史というのはごく短い記事で書き表すには非常に難しいものがあります。
物事は時系列ごとに順序立てて説明するのが一番分かりやすい、というのが原理原則ではあります。

しかしながら、小樽の歴史は非常に複雑であって、明治期となって新政府・開拓使が敷いた政治体制の中で、当時から発展してしまっていたが故に、非常に複雑な経緯を辿っており、それを単純な時系列で説明することは逆に理解を阻害することにもなりかねません。
一例を挙げれば現在の小樽市は遡っていくと最大で48もの区域、町名をルーツに持ち、これは現在の札幌市のルーツとなっている19の区域、町名の2.5倍近い水準です。
その為、この複雑な経緯は文献上、インターネット上を問わずその合併の足跡が網羅的に示された資料は殆ど残されていません。
これは小樽市の発行する郷土史『小樽市史』でも同様で、前述の『48もの区域、町名』も記述が分散しており、それを網羅的に特定・集成するのは困難を極めました。

私は小樽市史を通読し、その集成を成した訳ですが、そのような複雑な経緯を、最初から説明してゆこうとしても、現在の小樽市中心部については町名が多岐に渡り過ぎ、どうにも年表的な羅列をするだけで要領を得ません。
そこで、まずは小樽中心部については一旦省略し、現在の小樽市が形作られるようになった全体像を示してゆければと考えています。

さて、明治2年に開拓使が置かれ、その開拓使が明治3年小樽郡、高島郡、忍路郡の4つの郡とその中に複数の町村を置きます。
町村を置くまでに1年もかかっているというのに違和感を感じるかもしれませんが、当時、開拓使が置かれた札幌本府は未開の原野であって、現在の札幌市、当時の札幌郡でも村が置かれたのは明治3年の札幌村新村、発寒村、明治4年の琴似村、明治5年の手稲村など極少数であって、その他の入植者の住む場所は明確な名を持たない開拓集落でした。
明治3年の時点で多くの町村が置かれた小樽地区は江戸時代からオタルナイ場所、タカシマ場所、オショロ場所や銭函村、クマウス、ハリウスなどの漁場や集落が多くあり、それなりの人口がいたことが分かります。
ここからは一旦、明治3年に置かれた『郡』ごとに説明をしてゆきましょう。

【小樽郡】
当初、明治3年には信香町、信香裡町、山ノ上町、勝納町、金曇町、土場町新地町芝居町の8町と朝里村、張碓村、熊碓村、銭函村の4村が置かれます。
このうち8町については、明治の間それが分裂を繰り返し、最終的には27町にまでなり、明治32年にはこれが『小樽区』として統合され、大正11年『小樽市』へ改編されます。
小樽区となるまでの詳細な経緯については前述の通り今回は省略し、別途記事を用意します。
小樽区は古くは漁業が盛んであったものの、明治以降はその役割を周辺の町村に譲り、貿易とそれに伴う金融の根拠地となり、のちに『北のウォール街』とも呼ばれるようになります。

小樽区となった以外の4村についてはいずれも小樽の東側にある漁村で、ニシン漁が盛んでした。
特に銭函村については江戸時代からその名前を変えることなく、繁忙期にはニシンを売却した収入を入れる『銭の箱』が各家に積み重ねられていたことがその名の由来となっています。
4村は明治35年『朝里村』として統合されますが、あくまで『小樽郡朝里村』であって、小樽郡から独立した訳ではありません。
行政区分として現在の東京で例えるならば、小樽区が東京23区、朝里村が都下といったところでしょうか。
昭和15年に朝里村は小樽市に合併され、その後は札幌市と小樽市の間の立地という事もあり、札幌市からの商業流入も多いエリアです。
現在の施設としては朝里温泉、おたるドリームビーチ、東小樽海水浴場などの海水浴場があり、駅としては銭函駅があります。
特に銭函は札幌市に隣接するエリアで、工業団地にもなっており、利便性の高さから人気があります。

【於古発】
小樽郡と高島郡の間を流れるにあった於古発川の周辺のエリアで、当時は『於古発』=ヲコハチと呼ばれていたそうです。(現在は『おこち』と読みます。)
小樽郡と高島郡との境界付近にあった為、行政区があいまいで、当時は番外地のような扱いを受けていたようです。
於古発川の下流部分の南側で現在の花園町、堺町、山田町にあたるのがヲコハチです。
明治4年堺町が、明治17年には花園町がそれぞれ置かれました。
堺町からは明治19年には山田町明治23年砂崎町が分離しました。
その後、明治32年『小樽区』成立の際、高島郡とともに小樽区に編入され、正式に小樽の一部になりました。

【高島郡】
高島郡は小樽郡の北側の小さな半島部分…現在のおたる水族館付近に所在していた郡で、色内村、手宮村、高島村、祝津村の4村からなります。
明治32年『小樽区』成立の際に、色内村と手宮村であった区域が編入されてしまったこともあり、後期は高島村と祝津村だけが取り残されてしまい、Wikipediaによると北海道では最も面積の小さい郡であったとの事です。(『Wikipediaによると』という言い回しは情けないものですが郡ごとの面積が一覧となった文献資料が見当たらなかったのです。)
こちらも江戸時代からあったニシン漁場のタカシマ場所を前身としており、半島の先端という地形もあってか、明治以降も昭和初期までニシン漁が盛んで、『祝津三大網元』と呼ばれるニシン番屋の名家が存在しました。
具体的には『白鳥家』『茨木家』『青山家』の三家で、観光スポットとして公開されている施設もあります。
『白鳥家番屋』や『茨木家中出張番屋』といった実際にニシン漁に使われていた鰊番屋の他にも網元の栄華を物語る豪勢な鰊御殿、『旧青山別邸』『にしん御殿小樽貴賓館』なども有名です。

白鳥家番屋

茨木家中出張番屋

余談ですが、おたる水族館のすぐ近くの岬の先に立っている小樽市鰊御殿昭和33年泊村から移築されたもので、当時からあった建物ではありません。

小樽市鰊御殿

とても漁船を横付けしたり魚を運搬することの出来そうにない岬の上に建っているものですから、どうやって魚を運んだのか、疑問に思う方もいらっしゃるようです。
学習施設でもある訳ですから、もう少し建てる場所を選んだ方がよかったかもしれませんが、岬の上から眺める景色は絶景ですので、是非ご覧になって下さい。

前述の通り、小樽郡との元々の境界は於古発川付近で、この北側が高島郡でした。
明治14年に人口の増加に伴い色内村が色内町と稲穂町に分裂、手宮町が手宮町と手宮裡町に分裂し、明治22年には色内町の海岸が埋め立てられ、北浜町南浜町という2つの町が新設されますが、その後、明治32年小樽区に編入された事で、高島郡は手宮公園から先の部分だけが残されることになります。
明治35年には高島村と祝津村が合併し高島町となり、その後、昭和15年小樽市と合併します。
商業を中心としていた小樽と隣接しているにも関わらず、長らく独立を保っていたのは、郷土史では漁業を中心とした産業構造の違いによるものと紹介されていますが、その裏にはニシン漁の網元たちの財力と影響力があったのかもしれません。

現在の小樽駅や小樽運河、おたる水族館に小樽市総合博物館など、有名な施設はほとんどが旧高島郡に所在しています。
これは将来、小樽駅の記事を書く際にも紹介をしますが、小樽の市街は明治から昭和にかけ、徐々に北上していったのです。

【忍路郡】
忍路郡も他の郡と同様に江戸時代のヲショロ場所を前身とし、塩谷村、忍路村、桃内村、蘭島村の4村からなります。
明治39年に4村が合併し塩谷村へ、その後、昭和33年小樽市に編入されます。
やはりこちらもニシン漁が主要産業でしたが、小樽市街から距離があること、札幌とは反対側に所在する・・・もうほとんど余市町のような立地であることから残念ながら経済的な発展は望めず、都市化することはありませんでした。
桃内村に至ってはその存在がほとんど忘れ去られてしまっており、Google検索で引っ掛かってくるのはWikipediaの『忍路郡』と『塩谷村 (北海道)』の頁くらいのものです。
現在は塩谷駅、蘭島駅という2つの特急通過駅を持ち、有名な施設というと、塩谷海水浴場、蘭島海水浴場の2つの海水浴場でしょうか。
蘭島駅は令和元年10月1日に無人化され、現在も無人駅である塩谷駅とともに、域内の駅はすべてが無人駅となります。
また、忍路環状列石という、縄文時代のものとされるストーンサークルがあり、小樽の手宮洞窟、余市町にあるフゴッペ洞窟とともに当時から人々が住んでいたことを示す史跡です。
気候の変動などはあるにせよ、当時から魚が獲りやすい豊かな海であったことが伺えます。
海岸部分はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されており、広い範囲で自然が保護され、景勝地となっています。

【現在の銭函4・5丁目】
さて、ここまでは明治から戦前のお話をして来ましたが、わずか40余年前、昭和50年に小樽市の一部となったのが銭函4丁目、銭函5丁目のエリアです。
これは当時、石狩新港の再開発に伴って、当時殆どが手付かずの原野であったエリアを石狩町から小樽市へ移管したもので、旧来の自然境界であった新川の河口を乗り越えて石狩市側に市域が広がることになりました。
現在も開発は十分とは言えませんが、銭函1~3丁目の工業団地エリアの広がりに伴って、こちらの開発も進んでゆくでしょう。
歴史的経緯を説明しますと、明治3年に置かれた樽川村明治35年花畔村と合併し花川村となり、その後、明治39年石狩町となり、最終的に小樽市に割譲されたものです。

【まとめ】
さて、今回は小樽市が現在の市域になるまでに3つの郡と2つの地域が統合してゆくさまを説明しました。
全体の位置関係など、最初に示すよりはここまでの経緯をお読み頂いた上での方が分かりやすいと考え、ここで合併の状況が最も分かりやすい明治39年頃の概略地図を示します。

明治39年ごろの小樽概略地図

そして、ここまでの合併の経緯を表として示した図は以下の通りです。

小樽の合併の経緯図

小樽市の中心部で早期に小樽区となった部分については、記事本文と同様に省略してあります。
完全版はあるのですが、どうにも取っ散らかった図になってしまい、概観性がないので、必要な部分を抜き書きしてシンプルにしました。
小樽市が形成されるに至った100年以上の歴史がまとまり、皆様の理解の一助になれば幸いです。

今回の記事でマクロ的な全体の概略を掴んで頂いたことを前提に、次回は小樽市中心部が『小樽区』となるまでの27もの町名の誕生と派生の経緯をまとめてゆきましょう。

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細井 全

【参考文献】
◇林 顕三『北海紀行 付録』明治7年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第7巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇小樽市役所『小樽市史 第8巻 行政編(中)』(新版)平成6年
◇小樽市役所『小樽市史 第9巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年

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