2019.05.14郷土誌から読み解く地域歴史情報
小樽市桜の歴史 ~江戸・明治・大正編~
『桜ロータリー』という特殊な道路形状を持つことから、近代的な印象がある小樽市桜の街並みですが、この街並みが形成されていったのはいつ頃のことなのでしょうか。
北海道では戦後の農地改革や財閥解体によって広い土地が安価に庶民に払い下げられ、昭和30~50年代の高度経済成長期にそれが更に分譲されて『ニュータウン』として宅地化されていった経緯がありますから、北海道の街並みとして最もポピュラーなのはその頃の団地です。
不動産業者であっても小樽市桜を高度経済成長期のニュータウンだという風に思っている人間が多いのですが、実はこの小樽市桜…『桜町』は札幌よりもずっと古い歴史をもった街なのです。
現在、国道5号線から『桜町本通』を通り、桜ロータリーを経由して昇って行った頂上にある『熊碓神社』の礎は江戸時代…文化12年=1815年にさかのぼります。
当時は『稲荷神社』の名前でもっと北側…斜面の中腹にあったようで、ニシンの豊漁を願う為に保食神(うけもちのかみ)=お稲荷様を祀った神社でした。
つまり、ニシン漁を行なう漁民が居住していたという事です。
ニシンは季節の魚ですから、この居住を『定住』とまで言ってしまうことは出来ないかもしれませんが、漁業の拠点の一つとして機能していた事は確かです。
当時の場所請負制に基づくニシン漁が営まれていたものと推察されます。
現在の札幌市に和人が入植したのは明治に入ってからですから、それよりもずっと和人の定住が早かった地域であると言えます。
当時この周辺の地名は『熊碓(クマウス)』で、これはこの山を流れる『熊碓川』に由来します。
“クマウス“はアイヌ語に由来すると思われますが、おそらくは『二股になった川』というような意味でしょうか。
現在も桜の住宅街を流れている川です。
その後、文久2年=1862年には小樽市最古の寺院『長昌寺』が開基します。
ニシン漁に伴って海難事故もあったでしょうし人が暮らしていれば葬儀もある訳で、小樽で最古の寺院があるということはこの辺りは当時それなりに人の定住があったということなのでしょう。
小樽は『オタルナイ』として、江戸期から松前藩による場所請負制の元、ニシン漁が行われてていましたが、その中でもこのクマウス…現在の桜地区に最初の寺院があったというのは驚くべき事実です。
その後、明治3年には明治新政府の元で熊碓(クマウス)村が成立し、明治8年には稲荷神社が村の神社=村社に指定されます。
これは明治24年に渡辺 覚平氏が描いた『北海道後志国小樽港湾図』で、図中には『クマウス』という文字が見て取れますが、その文字の下には人家が描かれています。
大きめの建物は長昌寺でしょうか。
参考までに同じようなアングルをGoogleアースで見た画像を貼っておきましょう。
その後、明治35年に熊碓村は朝里村、張碓村、銭函村と合併して、朝里村となります。
明治21年から明治22年にかけて行われたいわゆる『明治の大合併』から遅れること十数年、東小樽の一帯が一つの自治体になった訳ですね。
ちなみに朝里村は小樽郡の村で、現在の小樽の中心街は当時小樽郡の中の小樽区とされていましたから、朝里村というものがポツンと独立していた、という訳ではなく、小樽地域の一地区として存在していた、ということです。
更に時代を下って明治29年に国土地理院の前身である大日本帝国陸地測量部が測量し、明治42年に部分改訂が加えられたた地形図を見てみましょう。
海側に『熊碓』、山側に『寺澤』と記載がありますね。
ここで新しい地名『寺澤』が登場しました。
これは『テラサワ』ではなく、『テラノサワ』と読むそうです。
最初に地図を見たときには『寺ってなんだ?』と思ったものですが、熊碓川が二股に分かれる周辺に卍の地図記号が描かれていますね。
『寺』とは小樽最古の寺院である長昌寺を指し、熊碓川の澤ということでかなりストレートなネーミングということです。
既に札幌は開拓使によって拓かれていますから、札幌と小樽を結ぶ道も何本か通っているのが分かります。
まぁ、その開拓使はこの地図が作成される27年も前に廃止されているんですがね。
他に地図に記されているものとして、『水産学校』がありますがこれは若竹町に所在し、明治38年に設立、明治40年に移設されたもので、現在は道立高校になっています。
また、熊碓川に沿った上流≒南側には神社の地図記号が見えます。
これが前述の稲荷神社≒熊碓神社なのか、というとそうではありません。
北海道神社庁のサイトや資料から総合的に判断すると、この神社は『金比羅神社』で、北海道神社庁によると明治40年頃に創祀された、大物主大神(おおものぬし)を祀る神社です。
この場所には現在、熊碓神社が遷宮されていますが、そのあたりの事情は後述します。
ちなみに地図北側の海岸線に沿って走る鉄道『官営幌内鉄道』は明治13年に北海道最初の鉄道として開通し、手宮~札幌~幌内間を結んだものです。
明治22年に『北海道炭礦鉄道幌内線』へ事業譲渡され、その後明治39年に再び国有化、明治42年に『函館本線』という名称となり、その名称はJRとなった現在にも引き継がれています。
時代は下って、大正5年版の大日本帝国陸地測量部地形図を見てみましょう。
道は若干整備されており、熊碓川の下流には道に沿って人家がかなり多くなっています。
また、山中にも下流ほどではありませんがぽつぽつと人家が出来ており、地図記号からは稲作が営まれていたことが分かります。
この頃にはすでに熊碓村から朝里村熊碓になっていますが、海側に『熊碓』、山側に『寺澤』という地名が記載されているのは変わりません。
寺澤という行政上の区分があったという記録は見当たっていませんが、民間の通称でもそのまま地形図に載ってしまうことはままあるのです。
寺院と神社の地図記号や水産学校の位置は変わりませんが、実はこのうち神社については、明治の地形図とは異なる事情として、神社が金毘羅神社から熊碓神社に変わってしまった、という話があります。
北海道神社庁によると大正2年、海側にあった稲荷神社=村社に金毘羅神社が廃合され、山の上のこの場所に社殿を移したとのことです。
各種資料によるとあくまでも現在の熊碓神社の元となったのは稲荷神社であって、金毘羅神社は場所こそ現在の熊碓神社にありましたが、廃合された側、とのことです。
また、大正2年に廃合されたという記載に加えて昭和32年に合祀された、という記載がありますから、村社として一つの場所には集められたものの、熊碓神社と金毘羅神社を平行して祀っていたということなのか、書類手続き上のことなのかは資料からは読み取れませんでした。
ただ、この社殿は海側に住んでいる氏子からすると参拝がしづらく、また、冬季は雪深いが為に社殿が傷むという理由で大正9年に再び海側のもともとの稲荷神社の場所に遷宮されたそうです。・・・なんじゃそりゃ。
地図を見ると大正の段階で小樽築港の埠頭が整備されています。小樽築港駅が開業したのは明治43年で、この地図の前後に埋め立てが進んでいった様子がよくわかります。
このように、江戸期からの歴史の中で徐々に漁村として人口の増加を始めていった熊碓ですが、その後どのような経緯を経て桜町、そして現在の小樽市桜となっていくのでしょうか。
次回、昭和の時代に熊碓から小樽市桜に生まれ変わっていく様子を紹介してゆきましょう。
桜地区での不動産売却・購入に関しては、小樽・後志エリアで1283件(平成24年1月1日~平成30年12月31日実績)の取引実績を誇るイエステーション小樽店:北章宅建株式会社に依頼されることをお薦めします。
それではまた次回。
細井 全
【参考文献】
小樽市役所『小樽市桜町由来小誌』昭和42年
小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
小樽区役所『小樽区写真帖 皇太子殿下行啓記念』大正11年
北海道神社庁 熊碓神社(小樽市) http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/04/04008.html
大日本帝国陸地測量部 五万分の一地形図『小樽』明治29年測量、明治42年加筆
大日本帝国陸地測量部 二万五千分の一地形図『小樽東部』『石倉山』大正5年
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