2021.11.02郷土誌から読み解く地域歴史情報

旧・小樽内川④ ~かつて3町村の境界だった2つの河口~

さて、今回のシリーズ記事では小樽という地名のルーツとなった旧・小樽内川の歴史と流路について、独自の解釈も交えながらご紹介をして来ました。

旧・小樽内川

ここまで上流から滝の沢川星置川清川旧・小樽内川の旧流路を紹介して来ましたが、そして前回では、ついに清川が新川の河口付近に注ぐ河口部分について、その新川と清川との合流点が札幌・小樽・石狩の3市町の境界点であった、と紹介しました。

今回は、⑧小樽内橋⑨オタナイ沼・オタネ浜についてその歴史的経緯も踏まえて紹介してゆきましょう。

 

早速、明治後期に発行された大日本帝国陸地測量部の5万分の1地形図を見てみましょう。

大日本帝国陸地測量部の5万分の1地形図

この頃はかろうじて小樽内という記載がありますが、フリガナは『オタ子』と振られています。言うまでもありませんが、マニアックな女性を指すのではなく、子と書いてネと読みます。干支の『子(ネ)』ですね。
右側・東側は石狩町であったことが右下の『町狩(石)』の記載で分かりますね。
明治19年から開削され、明治20年に通水した新川は、当初の名称を琴似川小樽内川大排水と言いましたが、そんな長い名前が普及するはずもなく、いつからというはっきりとした年代の根拠は見当たっていませんが、ほどなく新川と呼ばれるようになったようです。この地形図の時点でも既に新川と表記されており、中央下部やや左の『川』は『新川』の一部です。
石狩町にせよ新川にせよ、文字が途切れてしまい申し訳ありませんが、スマートフォンからの閲覧やレイアウトを考慮し、必要箇所を分かりやすいように意識したトリミングの為、ご容赦下さい。
この年代の地形図特有の事情として、清川の南側の画像中央下部に沼地が出来ていることが挙げられます。
新川の掘削によって、従来、雪解け時期や夏の大雨で洪水を起こしていた札幌市西部-当時は札幌区や琴似村、手稲村などですが年代により状態が変化する為、現在の市域を札幌市としてまとめます-水捌けが良くなり、農地としての利用が可能となることによって開拓が進んでいった訳ですが、札幌市の西側の雪解け水や雨水が流れ込んだ新川河口付近では水害が多発することになってしまいました。
おそらく、前掲の地形図に描かれた沼は、新川の水量が増加したことによって生まれたものでしょう。松浦武四郎氏の『東西蝦夷山川地理取調図』にも、これより後の年代の地形図にも描かれていませんから、新川の開削によってこの時期だけ存在していたものだったようです。
大正7年の大日本帝国陸地測量部2万5千分の1地形図を見ると、沼が消えてしまっています。

さて、先に説明した通り沼が消えていることはこの地形図でも明らかですね。また、前回紹介した通り、この地形図から清川の名称が記されるようになりました。
この地形図における非常に大きな問題として、新川の河口が、石狩湾に直通してしまっていることと、旧・小樽内川の流路が変動していることが挙げられます。
―と、言うのは、この後の昭和初期~戦後の地形図では新川の河口は北方向に直通するのではなく、旧・小樽内川と河口を共有するような記載となっています。
砂浜がどの位置にあったのか、というのは記載が難しいものですが、この記載から見ると、小樽内川は新川が石狩湾に注いだ後、再度浜辺に流れ込んでわずかばかりの距離を東へ流れ、再び石狩湾に注ぐという不自然な形を取っています。まぁ、新川自体が人口河川ですから不自然なのは当たり前かもしれませんが。

この時点で、新川の開削による増水などで、旧・小樽内川の河口は不安定なものになっていたのかもしれません。水の勢いが増せば慣性によってまっすぐ進む力が働き、河岸を削ることもよくあることで、その証拠として、旧・小樽内川流路自体が北側に少しずれており、元々の流路の一部が取り残されて沼のようになっています。これは現在のオタナイ沼とも似ていますが、位置的に同一の沼ではありません。
また、当時の小樽郡朝里村字銭函村石狩町字樽川村の境界線はI字の線で示されていますが、旧・小樽内川の流路と境界がズレてしまっていることがわかるでしょう。

小樽内橋完成

川の流路の移り変わりと同様にこの頃は河川の氾濫や橋の崩落は日常茶飯事でしたが、小樽と石狩とを結ぶ『小樽内橋』昭和5年に架け替えられた記録が残っています。
写真から判断するに幅が2間≒3.6mはありそうな木造橋ですが、手摺もなく、土台の骨組みも細く、橋面も薄い、少し頼りのない橋であるように見えます。
ただ、前述の通り、当時の北海道では橋が落ちるなどという事は日常茶飯事でしたから、どうせ落ちてしまう橋に巨額の建築費を掛けても仕方がない、という割り切りによるものだったのかもしれません。

 

次に掲載するのが、昭和10年大日本帝国参謀本部発行の5万分の1地形図です。

大日本帝国参謀本部発行の5万分の1地形図

日本国では地形図の発行主体≒現在の国土地理院の前身がその時期によって変化しますが、今回紹介するのは初めてのこの地形図では『参謀本部』と記載されており、『陸地測量部』とは書かれていません。陸地測量部自体が参謀本部の直属機関なのですが、記載のブレにどのような意図があったのかは分かっていません。
縮尺が5万分の1と、大正の2万5千分の1のものより小さくなっていますから、少し画像が荒くなっています。
こちらでもなんとか『小樽内川』の記載は健在ですが、やはり『清川』の登場によって、元々の流路より狭いごく一部の範囲のみが『小樽内川』とされてしまっています。紛らわしいので仕方ないですね。
現在の新川の河口はふさがっている記載となっており、流路は北に移動しているものの新川は小樽内川の河口へ合流しています。
地図記号によると、当時は浜辺から陸地側に向かって笹薮、広葉樹、水田が広がっていたようです。

砂浜に笹薮があり、広葉樹に続き、市街地に入るのは現在も同様ですが、現在、市街地になっている場所は砂地であって、営農は困難を極めたとの事ですから、水田もさほど大きな規模のものではなかったのでしょう。

 

さて、次の地形図は昭和31年、戦後のものですが、ここでは旧・小樽内川の河口に新川と記載されています。

以前の川筋であった小沼もかなり小さくなっていますが、まだかろうじて残っていますね。また、河口がやや西側に移動しており、流路の東側に元々の川筋であったであろう新しい小沼が出現しています。(地形図では『小樽内川』の『川』の文字の周囲。)
小樽と石狩の境界がずれてしまっている事でお互いに飛び地が出来てしまっているのは相変わらずです。こういった例は川などの自然物を境界とする場合にはよくある事で、近場では札幌市と石狩市の境界となっている発寒川の両岸には各市の飛び地が無数に存在しています。
地図における河川の記載として、河口にはその川の本流の名前が記載されます。川の”本流”というのはざっくり言うと河口まで名称が残る川の事であって、それに合流するのが”支流”となりますから、この時点で、旧・小樽内川という河川は本流の座から引きずり降ろされた事になります。遂にヲタルナイ・イズ・デッドです。
この為、清川新川水系に属しますし、河川改修によって新川に接続せずに河口まで直線化された星置川星置川水系となっています。

 

戦後に入り、インフラ投資が出来るようになった経済背景があってか、ここから先も旧・小樽内川/新川の河口は姿を変えてゆきます。
昭和40年前後の航空写真を見てみましょう。

昭和40年前後の航空写真

新川の右岸が直線化され、旧・小樽内川と完全に分断され、これによりオタナイ沼が誕生しています。
また、これまでの地形図で架かってた小樽と石狩を結ぶ橋、『小樽内橋』が落ちて、復旧している最中の様子が写し込まれています。この位置には明治期から橋が架かっている様子が地形図に描かれていますが、度々崩落していたようで前述の昭和5年に架け替えられた橋については、昭和37年には新川の大氾濫が起こり、それによって流失しました。せっかく架けた橋が32年しか持たなかったと捉えるべきか、毎年のように水害が起きていたのに32年よく耐えたと捉えるべきか・・・。

小樽内橋も流失

こちらは小樽側から撮影したものでしょうか。次の写真のキャプションは『削り取られた小樽内川』ですが、人家が2軒写り込んでいるので、石狩側を撮影したものと思われます。小樽内集落≒樽川村というように、石狩にはそこそこ人家がある一方で小樽側にはあまり人家がありません。

削り取れらた小樽内川

まー、エライ勢いで川岸が削られたようですが、おそらくはこの水害とそれに伴う復旧・護岸工事によって新川の河口が石狩湾に向かって直通化され、旧・小樽内川の河口が利用されなくなったものと思われます。

修復された小樽内橋

復旧した小樽内橋の渡橋式

小樽内川橋復旧記念

昭和30年代末『小樽内橋』が復旧されています。石狩市教育委員会による資料では昭和5年の橋にも昭和39年の橋にも『小樽内橋』と一貫してキャプションが振られているので、単なる表記ブレではなく、行政上は『小樽内橋』として扱われていたのかもしれません。(3枚目の写真は教育委員会の資料ではなく、地元の有志による郷土史です。)
もしかしたら、写真にあるように橋の本体に『小樽内橋』と書いてしまったのが誤りであって、地元の方は『川』を入れて読んでいたが、行政上の正式名称は『小樽内橋』というのが実態だった、という事もありそうです。
先の航空写真でも分かる通り、橋の位置がやや南方向に移動しています。

 

さて、今回は旧・小樽内川であるところの清川が新川に合流してから石狩湾に注ぐまでの短く、しかし非常に複雑な河口付近の事情について、明治期から戦後、昭和中盤までの歴史を通して紹介して来ました。
次回以降、昭和後期から平成にかけての旧・小樽内川の歴史についてご紹介してゆきましょう。

 

今回のシリーズではこれまでのシリーズと打って変わって例外的に札幌市手稲区・小樽市・過去の石狩市域を横断的に紹介してゆく記事です。
当記事は⼩樽・石狩エリアを中心に新しい不動産スキームを構築するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
⼩樽・石狩エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・石狩・手稲の各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

 

【参考文献】
◇松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』万延元年 ※原本の著者表記は松浦”竹”四郎
◇手稲保健センター『手稲区ウォーキングマップ』平成30年
◇石狩市教育委員会『石狩市21世紀に伝える写真集』平成14年
◇樽川地主会『樽川百年史』昭和52年
◇樽川発祥之地記念編集委員会『たるかわの歩み』昭和61年
◇手稲郷土史研究会『発足十周年記念史 掘り伝える』平成28年
◇小樽カントリークラブ『銭函五拾年』昭和54年
◇堀 耕『銭函の話』平成5年
◇小樽郡朝里村役場『札樽国道小樽銭函間改良工事写真帖』昭和9年
◇財団法人北海道開発協会『石狩湾新港史』平成3年
◇小樽港湾建設事務所『石狩湾新港建設のあゆみ 第1船入港まで』昭和62年
◇小樽港湾建設事務所『写真集 小樽築港100年のあゆみ』平成9年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第7巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇小樽市役所『小樽市史 第8巻 行政編(中)』(新版)平成6年
◇小樽市役所『小樽市史 第9巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇小樽市『未来のために=山田市政3期12年をふりかえって=』平成24年
◇有限会社北海道新聞中販売所『小樽・朝里紀行』平成30年
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部二十万分の一地形図『札幌』明治25年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『銭函』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『小樽』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部二万五千分の一地形図『銭函』大正7年
◇大日本帝国参謀本部五万分の一地形図『札幌』昭和10年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『銭函』昭和31年
◇国土地理院二万五千分の一地形図『銭函』昭和53年
◇国土地理院 航空写真各種
◇札幌市『札幌市河川網図』平成24年

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