2020.01.21郷土誌から読み解く地域歴史情報
朝里の戦後、道道1号線の整備と朝里川温泉『AVA構想』
さて、前回はかつてガッカリ沢と呼ばれた朝里川の上流の地区、現在の住所で言うと小樽市朝里川温泉の1丁目と2丁目の狭間に所在するエリアですが、ここには現在、朝里ダムと道道1号線があります。
戦後になってから平成に至るまで、これらが整備されて現在の形になった経緯を説明してゆきましょう。
前回も紹介した昭和31年の地形図ですが、2つの山に囲まれた朝里川とそれに沿って道路が敷設され、またその上流部に朝里貯水池が設置されています。
同時期、昭和30年代の航空写真を見てみましょう。
うーん、すがすがしいまでの森!ですね。
朝里川と有料道路が見えますが、周囲は森に囲まれていて人工物はほとんど見受けられません。
大正期の地形図の中央やや左側に記載されていた『牛馬組合牧場』は痕跡すら見当たりません。
さて、このエリアの起点である現在の道道1号線は戦前、戦後を挟んでどうなったかということからお話をしてゆきましょう。
先の記事でも少し触れましたが、地崎晴次氏が設立した小樽定山渓自動車道株式会社は現在の道道1号線を設置したのち地崎組の傘下となり、戦時中に解散してしまう訳ですがこの辺りの事情は同じ小樽市史の中でも巻によって記載に齟齬があり、更に小樽市史以外の資料にあたると、かなり齟齬があるような状態です。
ここでは小樽市史の第4巻の記載を基にしますが、アジア太平洋戦争以外の道路閉鎖の原因としてまず挙げられるのが小樽定山渓自動車道株式会社は冬期間の運行が出来なかった為、経営が苦しかったとの事ですが、当時の自動車の性能では急な坂や悪路の通行に弱く、またろくに除雪の出来ない昔ながらの道を通るのは無理という話でしょう。
また、戦時中の段階で大日本帝国軍からの指示で札幌と小樽を結ぶ重要な道路として豊平町と小樽市の共同管理の公道にされたという記録があります。
この時に道路を所有していた地崎組に金銭的補償が行われたのかは不明ですが。戦後、昭和26年には小樽市と豊平町、そして中央バスの3者がそれぞれ地崎組に対して100円ずつを支払って購入して小樽市道・豊平町道という扱いで修繕され、修繕の完了後、昭和29年には北海道に移管され道道3号線となりました。
この道道3号線が現在の道道1号線と改称されたのは、時代をずっと下って平成6年になってからのことですが、紛らわしいので本記事では道道1号線と呼称することにします。
道路の整備に3年間もかかっている訳ですが、一般社団法人北海道バス協会の沿革を信じると有料道路は昭和15年に閉鎖されて以後、昭和26年に地崎組が手放すまでの間に相当期間を経ており、アスファルト舗装ではなく、砂利舗装が一般的な当時の道路としては10年近くも閉鎖されていれば地盤の浸食や樹木の生育も著しく、整備に時間がかかったのもやむを得なかったのでしょう。
先ほど昭和29年に道道に認定されたと紹介しましたが、これが現在のような自動車交通に適した道路になったのか、というとそうではなく、昭和31年の北海道新聞に、各所に土砂崩れがあり道路としての用をなしていないという批判がなされています。
昭和34年以降、小樽市や中央バス、定山渓観光協会、札幌観光協会、小樽観光協会などが北海道に対して道路の整備を陳情します。
昭和40年代には、複数回に渡って北海道によって道路整備が実施され、徐々に観光道路としての役割を取り戻していく事になります。
さて、道路の整備については一旦置いておいて、朝里貯水池のその後について紹介してゆきましょう。
戦後、昭和40年代までは小樽も石炭輸送などで一大商業都市でしたから、船舶や住宅への給水需要は戦後でもますます拡大していました。単純な人口の増加という面よりも、衛生観念の向上なども大いに影響している訳ですが。
水不足は依然深刻であって、実は戦前の昭和11年から小樽市内各所で第二次拡張計画に向けた調査が実施されます。
ただ、この第二次拡張計画は戦時中のゴタゴタや、元々の小樽の立地的不利もあって、なかなか進んでゆきません。
第二次拡張計画が実施出来たのは、戦後になってようやくの事で、昭和26年に認可され翌年着工、昭和28年に竣工しています。
この後も奥沢、朝里以外の各エリアも含めてで第三次~第六次までの拡張計画が実施されました。
さて、道路と水道について紹介をして来ましたが、前述の通り、現在のこの辺りの住所は『朝里川温泉』です。
しかしながら、朝里川エリアで温泉が見つかったのは昭和になってからの事で、明治以来、この周辺には温泉があると言われてはいたものの、ボーリング調査なども繰り返されて来ましたが、湧き出しが確認されたのは戦時中の昭和17年の事です。
その後、やはり戦時中末期から戦後にかけての物資不足、資金不足などもあり、昭和27年に朝里温泉を設立し、昭和29年、最初の温泉旅館である元湯温泉旅館を皮切りに、次々と開業し、朝里川温泉郷を形成することとなります。
こういった民間の旅館に加え、昭和33年に小樽市立の官営で朝里川温泉センターが設置されます。民業圧迫との批判もあったものの、概ね好意的に利用されていたようです。
興味深い話として、昭和35年に小樽市の水道部長 武光小太郎氏が『広報おたる』で提言したASARI・VALLEY・AUTHORITY・・・A・V・Aという構想があります。
既存の水源地としての役割をダムや発電所によって拡充すると共に温泉を筆頭としてスキーリゾートや遊園地などを含めた総合レジャーエリアとして朝里を開発するというものです。
上記がA・V・Aの計画図ですが、この時点で現在の朝里ダムの位置にダムを建築する旨の計画が示されています・・・ただし、記載はロックフィルダムとなっており、実際の朝里ダムの築造形式である重力式コンクリートダムとは異なります。
さて、小樽市側のこういった構想の発表もあってか昭和39年、日観興業株式会社が朝里川温泉郷に朝里川ゴルフ場を建設するために小樽市に対して土地の払い下げを願い出ますが、市議会の反対から頓挫します。
そのすぐ後に日観工業の関連会社の株式会社札樽スポーツセンターに名義を変えて払い下げの申し入れが行なわれます。市議会では取引自体の是非や取引価格をめぐって疑獄じみた様々なゴタゴタがあったようですが結局、昭和39年には土地の払い下げが完了して札樽ゴルフ場(通称、朝里川ゴルフ場)がオープンします。当初の議論の中では夏はゴルフ場として、冬はスキー場として運営するという事になっていました。
昭和42年には更に小樽市に対してスキー場の運営にあたっては手狭という主張で更に範囲を広げる為の市有地の払い下げの依頼がありました。こちらも散々議会で騒いだようですが、翌昭和43年に払い下げが成立しています。
このようにして、朝里川温泉付近は現:道道1号線の両側へ温泉・レジャーの複合施設として開発されてゆく訳ですが、かつてはガッカリ沢はその頃どうなっていたのでしょうか、昭和40~50年代に撮影された航空写真を見てみましょう。
道路がはっきりと分かるくらい整備されている他に、右上に札樽ゴルフ場が開発されているのが分かりますが、実は、直近紹介した朝里川温泉のリゾート開発はガッカリ沢よりも下流の出来事であった訳ですね。
昭和50年頃になってもダムのダの字も出てこず、建物もほとんど見当たらない山中の沢地が、ここからどのようにして現在の姿に変わっていくのでしょうか、続きは次回にご紹介をさせて頂きます。
当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
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細井 全
【参考文献】
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第7巻 ⾏政編(上)』(新版)平成5年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第8巻 ⾏政編(中)』(新版)平成6年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第9巻 ⾏政編(下)』(新版)平成7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇⼩樽市『未来のために=⼭⽥市政3期12年をふりかえって=』平成24
年
◇有限会社北海道新聞中販売所『小樽・朝里紀行』平成30年
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『張碓』昭和31年
◇国土地理院航空写真各種
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