2021.06.23郷土誌から読み解く地域歴史情報

明治の『忍路』の総合商社『西川忍路支店』の盛衰

皆さんは『忍路』という地名をご存知でしょうか?
JRの駅もない土地ですから、北海道にお住まいの方であってもご存知ではない方も多いかもしれません。
『忍路』は小樽市西部の一帯にあった自治区分『忍路郡』の名前の由来ともなった江戸時代の『ヲショロ場所』を起源とするエリアで、『おしょろ』と読みます。

忍路湾

現在の忍路地区は日本海に突き出した忍路半島とその根元に忍路1丁目、その南側の国道5号線より先の山側に忍路2丁目がありますが、写真は忍路半島の先端の二股に分かれた入江である忍路湾です。
非常に美しい海があり岬に囲まれた立地で、裕福な方の別荘や法人の保養所などが点在し、”小樽の隠れ家”と呼べるような風情です。

忍路半島の住宅地

国道5号線は小樽を横断するメインストリートですが、忍路半島はそこから北側に分岐した一本道で岬へと下ってゆきます。

忍路の地形図

このように特殊な形状をした忍路半島にはカブト岬とポロマイ岬の2つに囲まれた忍路湾がありますが、非常に入り組んだ入江であるという事が分かるでしょう。
『忍路』の地名の由来はこの入江の形状にあり、アイヌ語のオショロ・コッ=尻のような窪みを意味するとの事です。
近代以前の漁業では、船舶が小型であったことなどを要因として、如何に波の少ない港を用意するのかという事が重要なポイントでした。
のちに小樽港も『天然の良港』と呼ばれていますが、江戸時代にはもっと小規模な澗であった方が漁業には都合が良かった為、忍路湾は格好の立地であったと言えるでしょう。
通常、このシリーズ記事では資料の少ない江戸期の歴史は紹介をせず、明治以降の歴史を中心に紹介していますが、今回は例外的に江戸時代の忍路から紹介してゆきましょう。

江戸時代の忍路湾

忍路の存在が歴史に現れたのは江戸期の1667年、近江商人の西川伝右衛門氏が忍路と高島を探検したというのが最古の記録のようです。西川氏は鰊や鮭などの海産物の取扱いの為に探検をしていたようで、忍路に拠点を構えると1740年には江戸幕府から西川家が場所請負人に任じられます。

西蝦夷道中見取図

西川家の当主は代々西川伝右衛門を襲名していましたが、北海道で活発に活動をしていたのは2代目までで、3代目以降は北海道には代理人・支配人を置いて現地の業務は任せ、店主本人は現在の滋賀県、近江八幡を本拠としていました。
ただ、江戸末期から明治初期にかけての西川家の当主は戸籍手続上の問題で西川伝右衛門を襲名出来ず、西川貞二郎氏という方になっています。

安政時代の忍路郡の鳥瞰図

安政時代の忍路湾

忍路湾の入江には複数の人家があり、その中心に大きなヲショロ運上家があることが分かりますね。

西蝦夷地廻浦見取図

さて、そのようにして江戸期の忍路は西川家を場所請負人とした漁業基地としてそれなりの繁栄を遂げていましたが、実は江戸期の末期から鰊漁は低迷が始まっていたという事情の中、時代は明治に移ります。
明治2年には開拓使が置かれたほか国郡里制によって忍路郡が置かれます。
忍路郡には忍路村のほか、塩谷村、蘭島村、桃内村の合計4村が所属しますが、郡の名前になっているということからも、忍路村が当時の筆頭格であったことが伺えます。
同年には大場庄兵衛という方が開拓使から『忍路支配人』に任命されます。
小樽支配人という役職時代は鰊場所の責任者という意味で江戸期から存在していたものですが、大場庄兵衛氏は西川商店が運営する忍路運上屋の責任者で、先代である初代大場庄兵衛氏を襲名した娘婿です。

大場庄兵衛の写真

この写真の大場庄兵衛氏は晩年の姿ですが、支配人となった当時はまだ若い娘婿で、先代=初代の大場庄兵衛氏の娘である妻が『すみ』さん、そのお母さんである義母『ゑと』さんと、先代が亡くなった後もずっと義母の『ゑと』さんには頭が上がらなかったそうです。明治時代のマスオさんですね。
当時の西川商店は、漁獲された海産物の輸出だけではなく、漁具や日用品の販売を行なっていたようです。漁具や日用品の代金の代わりに海産物を引き取るという物々交換を行なっていたそうで、そういった意味では忍路の経済圏を一手に握っていたと言えるでしょう。

 

明治2年12月には『忍路駅』が本陣と定められます。この『駅』というのはもちろん鉄道駅ではなく、運輸や郵便の拠点という意味の『駅』で、明確な時期は不明であるものの、江戸期には既に置かれていたものを、改めて明治新政府の行政区分である忍路郡の拠点と指定したという意味ですね。
明治6年には制度変更によって『忍路駅逓所』と改称されます。

明治6年の忍路

こちらは明治6年の忍路の写真ですが明治の初期としては、かなり立派な三角屋根の人家が密集して立ち並んでおり、忍路湾にはたくさんの船舶が係留されています。
写真奥、忍路湾の手前にある大きな建物が忍路駅=旧ヲショロ運上屋です。

 

明治7年には、大場庄兵衛氏がのちの忍路小学校の前身となる忍路学校を創立。お隣の塩谷より2年早いですが、小樽量徳学校忍路分校になったのは明治10年と塩谷より遅いのです。のちには明治28年に忍路尋常小学校、明治37年に小樽尋常高等小学校と改称されています。
明治11年には、小樽と余市間の山道が開発されるのに伴って忍路駅逓所が廃止され、新道沿いの塩谷駅逓所へ移転されてしまいます。

 

前述したように、忍路は二つの岬に囲まれた忍路湾が小型船舶による小規模な漁業を行なう上では最高の立地であった訳ですが、交通の主軸が海と川を使った水運から、道路と馬車を使った陸運へと移り、開拓使が北海道の道路網の整備を進めてゆく中では、半島の先にある忍路村は不便になってしまった、という事情があります。
ニシン漁も江戸期末期から不振が始まっていたという事もあり、忍路郡の中心地(本陣)としての忍路村の立場はこの頃から揺らぎ始めていたと言えるでしょう。

 

明治13年には、忍路村を含む忍路郡の4つの村が小樽高島忍路余市郡役所の管轄になります。郡役所というのは町村を束ねる郡の役所ですから、現在の北海道でいう処の振興局に近いものですが、一方で当時は一つの郡に一つの郡役所を設けることも困難であり、このようにして複数の郡を管轄する郡役所が置かれました。

 

これまで紹介してきた通り、忍路村は忍路湾を中心とした漁村でしたが、村の広がりに伴って明治17年忍路村土場=現在の忍路2丁目、国道5号線南側の山の手へ初の入植者が数戸入ります。
『土場』という地名は現在『忍路土場会館』(小樽市忍路2丁目165番地)に残っていますが、この会館付近が明治後期に敷設された北海道鉄道の駅の候補地になったのは以前『小樽の最西端『蘭島』の歴史 ~明治・大正編~』で紹介した通りです。

 

明治22年には、さらに郡役所の管轄が変更となって小樽郡外六郡役所=小樽高島忍路余市古平美国積丹郡役所の管轄になります。古平・美国・積丹が追加となっていますが、これは古平美国積丹郡役所と統合したことによるもので、このようにしてのちの『支庁』や『振興局』に繋がる行政区画の広域化が進んでゆきます。
同じ明治22年に、忍路村の経済圏を一手に担っていた西川忍路支店に大きな事件が起こります。
当時、西川商店の大きなニシン漁の業績は不安定になっていた中で、江戸期から忍路湾の脇にあったヲショロ運上屋の建物を利用していた西川忍路支店ですが、建物の老朽化や小樽~余市間の道路から遠いことの不便さから、総支配人である大場庄兵衛氏の強い意向によって建て替え計画が持ち上がります。
当時の西川商店の主人である西川貞二郎氏は、代々の慣例に従って忍路支店の運営を総支配人である大場庄兵衛氏に一任していましたが、一方で貞二郎氏と親交のあった当時の高島郡祝津村=現在の小樽市祝津にある白鳥番屋の主で祝津の御三家と呼ばれた網元の白鳥栄作氏は、忍路の名士としての大場庄兵衛氏の豪奢な暮らしぶりや尊大な態度を以前から貞二郎氏へ報告していたとの事で、業績が上がらない中で支店を移転・新築することに違和感を抱いていたようです。

白鳥番屋

西川貞二郎氏の黙認と大場庄兵衛氏の強いイニチアチブの中で、明治22年12月に西川忍路支店の豪華な鰊御殿が落成し、その落成の際には近隣から沢山の見物者が押し寄せたそうです。
しかし、翌年の明治23年5月、蘭島村の民家から発生した火災が忍路郡全域へと燃え広がり、忍路村の当時の総戸数220数軒のうち200軒以上が全焼し、その中には落成から半年足らずの西川忍路支店も含まれていました。

 

忍路村の建物の大半が燃えてしまった訳ですから、忍路村の経済圏をほぼ独占していた西川忍路支店にとっては大損害であったと言えます。
前述の通り、大場庄兵衛氏の態度や手腕に疑問を持っていた西川貞二郎氏はこの忍路大火をきっかけに3ヶ月後の8月に小樽へ出向き、大場庄兵衛氏を呼び出し、忍路支店の営業を停止して漁業取締所への格下げすることと大場氏の罷免自宅謹慎を申し付けます。
大場氏は総支配人の任を解かれたものの、西川商店からの退職を命じられた訳ではありませんでしたが、自宅謹慎を命じられ、再起も図れないと判断して大場氏は自ら職を辞すことを申し出ます。
しかし、退職後も地元の名士であった大場氏の取り巻きが西川商店との間で様々なトラブルを起こして裁判沙汰になり、結局、仲介をした方の計らいで大場氏が西川氏に対して陳謝して和解となったとの事です。
大場氏を慕った地元の人々が大場氏の復権を願って良かれと思って営業妨害をしたのか、或いは大場氏が裏で糸を引いていたのか・・・穿った見方をすれば、西川氏が大場氏を排除する為に自作自演を行なったというような陰謀論も考えられなくはありませんが、いずれも妄想の産物であってそれを示す客観的資料はどこにもありません。
そのような経緯があって西川商店を追われた大場庄兵衛氏ですが、その後も経済的困窮に陥った訳ではなく、晩年は札幌へ移住して大正4年に80歳で没するまでそこそこ裕福に過ごしたそうです。
一方の西川貞二郎氏は漁獲量の落ち込んでいた忍路を含む小樽方面での事業に半ば見切りを付け、北見や釧路などの北方漁業や捕鯨などの新規事業に精力的に投資を進めてゆく事になります。

 

明治30年には郡役所が廃止されて小樽支庁の管轄となりますが、市長を構成する町村は郡役所の時代から変わらず7町村でした。

明治36年には北海道鉄道による函樽鉄道が開設して忍路郡内には西側の蘭島村に蘭島駅が、東側の塩谷村に塩谷駅が置かれますが、残念ながら忍路村には駅が置かれませんでした。

そして、明治39年には忍路郡の4村が合併して忍路郡塩谷村が成立します。
ここまで繰り返し説明してきた通り、交通の転換による駅逓所の移転や忍路大火による被害で、既に忍路村は忍路郡の中心ではなくなってしまっていた事が合併後の村名に表れています。
明治40年には札幌農学校東北帝国大学農科大学に改組されたのに併せて水産科が設立され、明治41年、実習施設として忍路湾に忍路臨海実験所を設置します。
この設置は地元の忍路村と蘭島村の村民が実験所有地の為に募金を募って敷地を買収して1222坪の土地を大学へ寄付したことによって実現したというのですから、当時の人々の地元愛の強さには感服するばかりです。

明治43年には再度の制度変更によって小樽支庁が廃止されて岩内支庁、寿都支庁と室蘭支庁の一部を統合して後志支庁が設置され、平成22年後志総合振興局に改組されたのちも管轄範囲はこの時点から殆ど変更されていません。

 

さて、最後に大日本帝国陸地測量部作成、明治29年測量・明治42年部分修正の5万分の1地形図を見てゆきましょう。

忍路の明治の地形図

カブト岬とポロマイ岬はそれぞれカブト崎・ホロべ崎と表記されています。地図上のタテ岩は現在の表記では立岩となっています。
また、ポロマイ岬=ホロべ崎の南側にあるちょっとした窪みは横泊と表記されていますが、戦後の地形図では違った表記となっています。現在まで続く変更後の表記はとても面白い地名なので、次回の記事を楽しみにして頂ければ幸いです。

 

さて、江戸期から明治初期にかけて、小型漁船での小規模漁業に向いた恵まれた立地によって忍路村は周辺の中心地となった訳ですが、産業革命によって漁業も徐々に効率化・大規模化され、また道路網が整備されることで忍路郡の中心地は塩谷村へ移ってしまいますが、その後の忍路村はどのような道を歩んで行ったのかは、次回の記事で紹介する予定です。

 

当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
⼩樽・後志エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・余市・手稲・⽯狩の各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇塩谷村役場『忍路郡郷土史』昭和32年
◇竹内荘七『忍路郡塩谷村鮏漁場実測図』明治29年
◇須磨正敏『ヲショロ場所をめぐる人々』平成元年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第7巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇小樽市役所『小樽市史 第8巻 行政編(中)』(新版)平成6年
◇小樽市役所『小樽市史 第9巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇小樽市『未来のために=山田市政3期12年をふりかえって=』平成24年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『余市』明治29年測量、明治43年部分修正
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽西部』昭和28年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『余市』昭和33年
◇国土地理院 航空写真各種
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇永田方正『北海道蝦夷語地名解』明治24年

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