2019.05.31郷土誌から読み解く地域歴史情報

小樽市桜の歴史 ~昭和・戦後・平成編~・・・と『望洋台』の誕生

さて、小樽市桜=桜町『熊碓』『寺澤』から野口喜一郎氏らの東小樽土地区画整理事業組合の手によって生まれ変わった経緯を紹介しましたが、昭和12年に勃発した支那事変≒日中戦争によって分譲は順調な状況とは言えなかった、というのが前回までのあらすじ。

 

ご存知の通り、そうして泥沼化していった戦争は昭和20年にようやく終結を迎えます。

前回も紹介した昭和22年に米軍が撮影した航空写真を紹介していきましょう。

桜ロータリーの形成とまばらに建ち始めた人家の様子が見て取れます。

 

さて、今回は戦後から平成にかけての小樽市桜の状況を紹介してゆく記事ですが、インターネット上にもアナログ媒体でも他ではほとんど資料を見つけることが出来ません。

桜の歴史を取り扱っている記事はインターネット上にも既にいくつかありますが、これは殆どが昭和42年に発行された『小樽市桜町由来小誌』という書籍を底本にしています。

当記事も他の情報を交えつつも、『小樽市桜町由来小誌』を重要な資料としていますが、この書籍では昭和10年前後の土地区画整理事業の経緯を紹介するもので、それ以前も以後もほとんど紹介されていません。

また、小樽市によるオフィシャルな資料である『小樽市史』(旧版・新版の二種類があります。)やそれ以前の『小樽区史』にも、桜のことは殆ど書かれていません。

 

民間の事業に関しては新たに開拓されていくこともまずありませんから、時代背景や不動産業の事情と併せて限られた資料を基に記載をしてゆきましょう。

 

昭和20年の終戦後、北海道は混乱期に入ります。

戦時中の北海道は本州の大都市ほど空襲による被害が大きくなかった一方でロシアとの関係や、GHQによる占領、外地からの引揚者の対応などで戦後の北海道は戦前よりもなお疲弊してゆきます。

樺太や満州、台湾、中国などの外地から国内に戻った人の居住地として、人口密度が低い北海道が重要な役割を担うことになり、各地に引揚者住宅が建設されます。

また、財閥や地主への財産の集中が問題であると考えたGHQは財閥解体と農地解放を強行します。

この改革は現在の日本にも大きな影響を与えていますが、それは小樽市桜についても同様です。

 

昭和21年に成立した『自作農創設特別措置法』は下記条件に該当する土地を国が強制的に買収し、格安で小作人に買い取らせる、というものです。

不在地主すべての小作地
在村地主約1町(北海道4町)を超える小作地
・自作農地のうち3町(北海道12町)以上の農地

 

これによって、昭和15年に野口喜一郎氏が引き取った売れ残りの分譲地の一部が『農地』とされて買収され、農地に戻ってしまったそうです。

組合は各所へ陳情して回ったそうですが、その大半は受け入れられずに農地(≒市街化調整区域)となってしまったそうです。

 

また、直接的影響として一部が農地に戻されてしまったということ以上に大きな影響が間接的に発生します。

この農地解放によって昭和30年頃から小作人たちに払い下げられた札幌市の農地が次々と宅地化し、多くが分譲地となりました。

これが桜町に与える影響は少なくなかったようで、終戦直後から10年を経た昭和30年代の航空写真では、まだほとんど建物が増えていないことが分かります。

 

続く昭和40年代には札幌オリンピックの開催に向け、札幌市はますます都市化し、官民それぞれの主導によってベッドタウンとしての分譲住宅地が造成されてゆきます。

札幌を中心に北海道住宅供給公社やじょうてつ等の民間企業によって盛んに住宅地が分譲され、自動車の普及=モータリゼーションも進んでゆき、昭和46年以降は札幌市営地下鉄網が拡大し、終戦前後とは生活スタイルが変わってゆきます。

これによって他にいくらでも分譲地があるような状況になってしまい、相対的に不便な立地である小樽市桜よりも札幌市で仕事をするには札幌市内の住宅地の方が人気を集めてしまったのは自然の成り行きでしょう。

 

一方で小樽はと言えば、北海道の海運の中心地は小樽(日本海ルート)から苫小牧(太平洋ルート)へ切り替わり、石炭から石油へのエネルギー革命によって空知地方から鉄道で運搬した石炭を全国へ海運するという小樽の役割が失われ、衰退してゆきます。

かつては漁業も盛んでしたが、昭和29年以降、ニシンの漁獲量は激減、昭和52年の200海里制限によって遠洋漁業が縮小します。

現在も寿司をはじめ海産物の美味しい小樽ですが、産業としての漁業の規模は他の北海道の漁業町より大きく劣ると言わざるを得ません。

このように戦後・昭和後期は小樽にとって低迷の時代でありましたが、そんな中でも戦後復興と高度経済成長波の中で、小樽にも少しずつ変化が起こり始めます。

 

昭和44年には『桜町』の町名が桜1~5丁目へと町名変更されます。

そして小樽にもようやく民間での宅地開発の波が訪れます。

昭和47年12月三菱地所株式会社『小樽毛無山地区開発用地』として小樽市桜の南側(山側)にあたる桜4~5丁目と朝里川温泉町1丁目の一帯の買収を開始します。(朝里川温泉町1丁目は元々、熊碓村の一部であり、豊倉という町名を経由して現在の町名となりました。)

 

昭和48年小樽土地開発公社桜3丁目小樽海員学校の用地を取得、昭和51年に移転、平成13年に現在の名称である国立小樽海上技術学校に改称します。

これは以前の記事で紹介した小樽水産高等学校とは別の組織で、海員学校は国立、水産学校は道立となっています。

 

そして昭和51年4月27日株式会社小樽都市開発が設立されます。

これは資本金5000万円のうち69%を三菱地所が、残り31%を地元財界が出資した三菱地所の子会社です。

当初、430ha(130748坪)の土地を開発する予定だったとのことです。

三菱地所の社史の表記では『地元財界』と表現されていますが、ここに野口喜一郎氏の北の誉酒造株式会社が含まれているのかは不明です。

・・・と、言うのも部外者が取得出来る法人登記情報では、設立年月日や事業の目的、役員の構成などは分かるのですが、出資割合までは調べる事が出来ないのです。

 

半年後の昭和51年11月24日には、小樽市から土地2.6ha(7864坪)の現物出資を受けて資本金1憶300万円となります。

株式の50%超を自治体が保有する第三セクターとなり、昭和52年4月21日には商号を株式会社小樽都市開発公社に変更します。

この法人になってからの登記情報を確認したところ、三菱地所の関係者の他、小樽市長を務めた山田勝麿氏、小樽商工会議所のメンバーなど十数名が役員に名を連ねています。

 

昭和55年4月には第1工区8万5547坪の開発許可を取得し、昭和55年6月11日に起工式、昭和56年9月13日には販売開始、昭和57年3月26日に第2工区の開発許可を取得、昭和57年11月には第一工区が竣工、平成元年8月には第2工区も竣工します。

 

これが現在も三菱地所レジデンスによって分譲されている『おたる望洋パークタウン』なのです。

小樽市桜の話じゃなかったの?という話なのですが、前述の通り、ここは元々桜の一部であったものが昭和56年5月小樽市桜4~5丁目の一部が望洋台1~3丁目に町名変更されたのです。(望洋台4丁目は平成16年と、随分と遅い変更となっています。)

望洋台地区の開発に合わせて昭和59年には望洋台小学校、平成2年には望洋台中学校が開校します。

バブル経済の真っただ中という事もあり、人口減少に苦しんでいた小樽市側も財閥系不動産業者のニュータウン構想には大いに期待をした事でしょう。

平成10年にはスキージャンプ台、小樽市望洋シャンツェが完成、平成17年には望洋サッカー・ラクビー場がオープンします。

しかし、このうち望洋シャンツェについては殆どスキージャンプ大会を誘致出来ずに利用がされず、また維持管理費が大きな負担になっていたとの事で平成28年廃止、現在は夏季だけキャンプ場となっています。

昭和初期に戦争や農地法によって挫折した小樽市桜の分譲計画ですが、昭和末期から平成にかけて分離独立した望洋台≒望洋パークタウンは令和の現在でも分譲中であり、今回紹介しなかった望洋台4丁目に至っては、まったく分譲されていない状態となっており、この計画も決して順調であるとは言えない状況です。

都市のインフラとしての分譲住宅地は重要である一方で、コスト感覚を持っていかなければ、スプロール(虫喰い)化が進み、その負担は住民に跳ね返ってきます。

小樽と札幌の中間にあり、海を見渡す事が出来る眺望の良さやロータリーや桜並木もある個性的な街並み、そして小樽でも有数の歴史あるエリアであることを鑑み、小樽市桜の復活と望洋台の発展を祈るばかりです。

 

過去4回に渡って小樽市桜と小樽市望洋台について好き放題に書かせて頂きましたが、住民や関係者の方でお気を悪くされた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。

本記事の内容については私の個人的見解でありスポンサーである北章宅建株式会社さんには非はありません。

小樽市桜・望洋台で不動産売却や購入をご検討の方は後志エリアで小樽・後志エリアで1283件(平成24年1月1日~平成30年12月31日実績)の圧巻の取引実績を誇り、社外の人間である私に好き放題やらせてくれる度量の広い社長:坂本 周平氏がいるイエステーション:北章宅建株式会社への依頼をお薦めします。

勿論、桜・望洋台以外の後志エリアの不動産の相談全般についてもお薦め致します。

細井 全

 

【参考文献】

◇小樽市役所『小樽市桜町由来小誌』昭和42年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第七巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇金子信尚『北海道人名辞書』大正12年
◇小樽商工会議所『小樽商工名録 大正11年版』大正11年
◇北海道神社庁 熊碓神社(小樽市)
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/04/04008.html
◇国土地理院 米軍撮影航空写真『10470929 USA-M531-9 』昭和22年
◇国土地理院 航空写真各種
◇三菱地所株式会社社史編纂室『丸の内百年のあゆみ : 三菱地所社史』平成5年

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