2019.11.18郷土誌から読み解く地域歴史情報

かつて小樽駅だった南小樽駅周辺の歴史 ~明治編~

さて、『小樽へ行く』という時には自動車で行くのも便利ではありますが、JRに乗って行くというのも便利なものです。車と違ってお酒も飲めますし。
小樽はかつての物流の要衝であり、JRの駅は札幌駅側から数えて銭函駅、朝里駅、小樽築港駅、南小樽駅、小樽駅、塩谷駅、蘭島駅と7駅もあり、このうち小樽築港駅南小樽駅小樽駅新千歳空港直通『快速エアポート』の停車駅となっており、北海道外からも札幌市内からも気軽に出向くことが出来ます。

南小樽の空撮写真

ところで、私は鉄道運⾏に詳しい訳ではないのですが快速エアポートの停⾞駅12駅のうち、⼩樽が3駅、札幌が4駅で、千歳市内が3駅と多数を占めており、⼩樽市内の停⾞駅が4分の1とかなり多いように思われます。
乗降客数、列⾞の加減速、収益性などの複雑な関係性があるのでしょうが、何にせよ快速エアポートが⼩樽の観光や経済に良い影響を与えていることは間違いありません。

そんな快速停⾞駅のうち、南千歳駅と並んでちょっと影が薄いのが南小樽駅です。
⼩樽市内の有名な観光地であるメルヘン交差点や堺町本通などはむしろ南⼩樽駅の方が近いのですが、一番有名な⼩樽運河は⼩樽駅から歩いてすぐという事もあってか、乗降客数で⾔えば⼩樽駅の6分の1、南⼩樽を起点として観光をする人は少ないようです。
今回は南⼩樽駅周辺の歴史について紐解いてゆきましょう。
前回、⼩樽市誕生の経緯② 〜⼩樽中⼼部の27の町の派生と統合〜で紹介したように開拓使が⼩樽郡を置いた頃、その中⼼部は勝納川の両側に広がる信香町勝納町でした。

勝納川

開拓使によって本府と定められた札幌ですが、札幌には海がない上に明治にゼロから造られた街ですから、江⼾時代からある港町である⼩樽は明治から戦前に⾄るまで北海道の物流の鍵を握る要衝となったのです。

明治政府のエネルギー政策で重要な地位を占めた石炭は北海道の各地で採掘され、その運搬手段として明治13年に官営幌内鉄道が開通します。
これは幌内村(現在の三笠市)で採掘された⽯炭を線路で札幌・⼩樽を経由して手宮の港まで運搬し、そこから船に積み替えて北海道外へ運搬する役割を担う鉄路です。

官営幌内鉄道の開通と同年の明治13年11月23日に現在の南⼩樽駅の前身として『開運町』停車場が設置されます。
開運町明治5年量徳町から分離して設置された町名で、量徳町もその前年の明治4年信香町から分離したものですから、明治以降この周辺が急速に発展していったことが分かります。
開運町の町名は既に残っておらず、現在は若松住吉町の一部になっています。
唯一と⾔っていい名残として南⼩樽駅の南東側(札幌側)となりに所在する開運町踏切があります。

開運町踏切

開運町踏切の遮断器

当時はこの周辺が小樽郡の中心地であり、幌内鉄道の終点である手宮駅は高島郡という別の郡に所在していました。
この中⼼部がより北側、現在の中⼼部へ移っていった契機となったのが明治14年5月の大火です。
これにより開業からわずか半年で開運町駅は焼失してしまいます。

しかしながら、駅施設は必要不可⽋のインフラですから、すぐに手宮側に若⼲移動して住吉町側に『住吉』停車場が設置・改称されました。

住吉停車場鉄橋の図

現在の住吉停車場鉄橋

この周辺は現在もアップダウンが激しく、当時から複数の鉄橋で支えられていたようです。
また、過去には住吉第二隧道というトンネルもあったようですが、丘陵部分が掘削されたのか、現存していません。
道路改良によってある程度アップダウンが緩やかになった現在も古い鉄橋が数多く残されており、坂も多いエリアになっています。

坂道のある現在の住吉停車場周辺

明治14年の大火を契機にかつての⼩樽郡の中⼼部が北上してゆき、於古発高島郡手宮町色内町へ市街地が移動してゆき、明治32年にはそれらの区域を併合し小樽区が成⽴し、名実ともに⼩樽の一部となってゆきました。
そのような動きのある中で、南⼩樽を取り巻く事情は更に複雑になってゆきます。

開拓使の肝煎りで設置された官営幌内鉄道ですが、国策事業であったがゆえに⽯炭の運搬に係る収益が上がらず、明治21年には半官半⺠の北有社へ運営を委託、またその翌年の明治22年北海道炭礦鉄道へ払い下げられます。
北海道開拓は紆余曲折がありながらもロシアの南下に対応し、富国強兵の為に産業を発展させる為に、明治政府の重要課題として、試⾏錯誤されながら進んでゆきます。
その中で、開港地であった函館と本府のある札幌を結ぶ鉄道の必要性が議論され、明治33年には函館と⼩樽とを結ぶ『函樽鉄道』の設置の為に北海道炭礦鉄道とは別に北海道鉄道が設⽴されます。
明治36年北海道炭礦鉄道住吉駅を『小樽』駅と改称し、一方で北海道鉄道『小樽中央』駅を新設します。
この⼩樽中央駅こそが現在の⼩樽駅の前身となる駅ですが、非常に紛らわしいですね。

これを以て、観光本や歴史本の一部では『昔の中⼼部である現︓南⼩樽駅に『⼩樽』駅が置かれ、現在の⼩樽駅は開業当時『⼩樽中央』駅だった』というような書き方がされたのですが、実際の事情はもっと複雑であったようです。
史料から読み解ける範囲の事情としては①鉄道会社同士のライバル関係、②旧市街と新市街のライバル関係という二つのライバル関係が関係しているように思われます。

官営幌内鉄道薩摩藩出身で開拓使⻑官の⿊⽥清隆が認可し、同じく薩摩藩出身で⿊⽥の腹⼼、村⽥堤が興した北有社が運営したのち薩摩藩出身堀基(ほり・もとい)が設⽴した北海道炭礦鉄道が払い下げを受けたという経緯を持ち、薩摩藩の藩閥と非常に関係の深い組織でした。

一方で北海道鉄道渋沢栄一など中央の財界人と函館、⼩樽などの地元実業家の出資により北垣国道を代表として設⽴した会社ですが、この北垣国道という人は現在の兵庫県に生まれて明治維新に参加、高知と徳島の県令を務めたのち京都府知事、北海道庁⻑官などを務めた新政府の官僚です。
北海道鉄道が設立された明治33年当時はそれらの役職を経て貴族院議員となっており、肩書も『専務取締役社⻑』であることから、どちらかと⾔えば名誉職のような形で中央から派遣されてきた方、というのが実情でしょう。

当時、中央政府での影響⼒が弱まりつつあった薩摩藩閥の北海道炭礦鉄道と明治政府の意向を受けた北海道鉄道との間でライバル関係や勢⼒争いがあったことは明確に資料に記載されてはいませんが、想像に難くありません。

北海道鉄道が⼩樽に駅を設置する噂を聞きつけ、北海道炭礦鉄道が敢えてその開業直前に⼩樽駅の名前を取ってしまおう、と考えてもこれは商売上の競争ですから、やむを得ないことと⾔えるでしょう。(まぁ、第三セクターみたいなもので双方に政府の公⾦も⼊っているのでちょっと内ゲバっぽくはあるのですが・・・)

また、会社同士のライバル関係に加え、⼩樽市史の記載によれば明治14年の大火の時点から市街の北上は始まっており、現在の南⼩樽周辺は明治初期の中⼼地ではあっても、明治30年頃には既に中⼼地ではなくなっていました。
そういう意味で、旧市街地であった⼩樽駅周辺と、新市街地となりつつあった⼩樽中央駅とで住⺠の間にもいろいろな諍いがあったようです。

人間同士のグループが複数あれば派閥争いが起こるのは当然の事ですが、このような経緯によって『⼩樽』駅は中⼼部からずれた場所に所在してしまい、またそれぞれの鉄道には現代のような相互乗り⼊れの仕組みもありませんから、当初は現︓⼩樽駅と現︓南⼩樽駅の間の2kmほどの区間は、人⼒⾞などで移動されていたそうです。
これでは流⽯に不便すぎるということで翌明治37年には両社の共同運営で連絡線が設置されたそうですが、連絡線という表記を見るに、現代のような直通運転とは程遠い不便なものであったことが予想されます。

現︓⼩樽駅・・・当時の⼩樽中央駅のその後の経緯に関してはまた別の機会に説明をする機会を持ちますが、現︓南⼩樽駅・・・当時の⼩樽駅に関しては、更に⼩樽の中⼼部が北上し、色内を中⼼に銀⾏が⽴ち並んで北のウォール街とも呼ばれるようになっていった明治44年『入船』駅と改称しようという動きがあったようです。
しかし、地元の有力者の大反対によって⼩樽駅のままとなった、という事件もあったようです。

ここで明治29年測量、明治42年部分修正を加えられた大⽇本帝国陸地測量部(現在の国⼟地理院の前身)発⾏の地形図を⾒てみましょう。

明治29年測量の現南小樽周辺の地形図

解像度が低く地図の表⽰が荒いのは、古い資料だからというだけではなく、他の時代の2万5千分の1の地形図と異なり、縮尺が5万分の1と倍も違うからです。

地図の記載が『をたる』となっており、現︓⼩樽駅と現︓南⼩樽駅の間の連絡線も記載されています。
当時の写真でも、駅の南東側にある量徳橋から⾒下ろした先の現︓⼩樽駅方向へ線路が延びていることが分かります。

明治の現南小樽駅構内の写真

現代の南⼩樽駅舎の写真

同じく現代の量徳橋から南⼩樽駅舎を写した写真を参考までに紹介しましょう。
駅舎の形状は勿論、周辺が高層建物になっていることが分かりますね。

明治37年に勃発し、明治39年に講和した⽇露戦争では、旭川の第七師団をはじめとした北海道各地の大⽇本帝国軍が活躍しましたが、最前線の手前である北海道に緊張が走ったのも事実です。
以前紹介しましたが国道5号線が『軍事道路』として整備されたのは有事の際に⼩樽を札幌から孤⽴させない為でした。
明治政府は⽇露戦争の講話による不況と、明治維新以降の無秩序な官と⺠との関係や⾏政組織の不整合を正す為に、また、国の経済的な事情も踏まえてある種の統制体制に⼊っていきます。
その一環として明治39年に公布された鉄道国有法は、国内各所で営業していた私営鉄道を政府が買収して国有化して一元化するというものです。
鉄道国有法では17社の私鉄が1年を掛けて順次買収されてゆきましたが、その中でも北海道炭礦鉄道は最も早い明治39年10月に買収され、北海道鉄道は翌明治40年7月に買収されました。
連絡線が共同運営されたとはいえ、⼩樽〜南⼩樽間の運営が分断され、函館と札幌が直通で運転されていなかったことは国防上も経済上も好ましくないという判断なのでしょう。
このように、紆余曲折はありながらも明治の末期には函館と札幌は一本の鉄道で結ばれ、⼩樽区内の旧市街と新市街も往来が容易になりました。
これによって⼩樽は明治以降も益々発展を遂げてゆくこととなります。
次回以降、大正、昭和以降の南⼩樽駅がどのような経緯を辿ってゆくことになったのか、ご紹介してゆきましょう。

当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション︓北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
⼩樽・後志エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・余市・手稲・⽯狩の各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇林 顕三『北海紀⾏ 付録』明治7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第7巻 ⾏政編(上)』(新版)平成5年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第8巻 ⾏政編(中)』(新版)平成6年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第9巻 ⾏政編(下)』(新版)平成7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇⼩樽市『未来のために=⼭⽥市政3期12年をふりかえって=』平成24

◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『小樽』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部二万五千分の一地形図『小樽東部』大正5年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽東部』昭和25年
◇国土地理院 航空写真各種
◇北海道庁『小樽港修築平面図』昭和2年
◇小樽市港湾修築事務所『小樽港湾全図』昭和7年

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