2020.03.17郷土誌から読み解く地域歴史情報
戦後生まれ変わる『小樽築港』駅の歴史 ~戦後・平成編~
さて、前回は明治から大正を経て戦前までの小樽築港駅周辺の歴史を紹介してゆきましたが、今回も引き続き戦後から平成までの歴史を紹介してゆくことを通して、令和の小樽築港がどうなるのか、考えてゆきましょう。
さて、昭和25年の2万5千分の1地形図をもう一度お示ししましょう。
当時の小樽築港駅では小樽エリアの機関区として車両の管理や整備も行われていた他、東側には桜町地区が分譲されて周辺には賑わいが増えてゆきました。
戦後の復興に伴って、北海道では住宅需要が高まってゆきます。
樺太や満州、台湾、朝鮮といった外地からの引揚者の受け入れ場所として全国の中でも北海道は多く選ばれた経緯があります。
住宅需要が高まるということは、木材への需要も高まるということですが、この当時、木材というのは一般的に水に浮かべて保管していたものです。
東京にある『新木場』『木場』は貯木場を由来とする地名というのは有名な話ですよね。
かつて明治時代の札幌には創生川の東側、北1条東2~4丁目には開拓使の貯木場がありましたが、これはごくごく小規模なもので、小樽の湾内に三井物産会社貯木場としてかなり大規模なものがあった記録が残されています。
ただ、この三井物産の貯木場は現在の小樽築港よりは小樽に近い場所にあったようで、前回触れた第1~第3埠頭の建設などで場所がなくなっていったのでしょう。
小樽市は昭和28年から運輸省に若竹町に貯木場の建設して欲しい旨、要望していたそうです。
戦時中の乱伐や国の林業政策の転換によって太さ・長さが十分な木材が手に入らなくなった昭和30年代には、いわゆる『外材』=原木の輸入が広がりますが、従来、これは小樽以外の場所でされていました。
しかし、人口密度の高い札幌や小樽で住宅需要が高まるのに対応する為、距離的に近い小樽築港で外国産の輸入材の貯木を行なった方が好ましいと判断されたようです。
こうして『若竹貯木場』は若竹町の沿岸に築造されることになり、昭和36年から着工し、昭和38年に第一工期が完工、昭和43年から着工した第二工期は昭和47年に完工し、完成を見ます。
完成当時は雪が降っていたようで、海に浮かんだ丸太に雪が積もってロールケーキのようになっていますね。
昭和30年代後半の航空写真を見てみましょう。
おそらくは第一期工事が終わる前後に撮影されたものと思われます。
岸から木材を係留する為の防波堤のような構造が張り出し、そこに無数の材木が係留されている様子が分かりますね。
後掲の航空写真でも分かりますが第二工期ではこの周りを取り囲むにもう一つ防波堤が張り出す形になります。
また、昭和30年代からは自動車の普及、いわゆるモータリゼーションも活発となり、トラック輸送の発達によって国鉄各駅の貨物の取扱量が減少してゆきます。
昭和34年に蘭島駅、昭和37年に塩谷駅の貨物取扱が廃止されます。
小樽・南小樽・小樽築港・浜小樽・手宮の市内5駅についても貨物の取扱いが減少し、各駅で取り扱うことが不合理であるという判断から、昭和39年、小樽築港に『築港貨物集約駅』が設置され、貨物業務が集約化されました。
この後も貨物の取扱いは減少を続け、貨物集約駅は浜小樽駅へ通じる貨物支線が昭和59年に廃止されるまで、細々と運営されてゆく事になります。
上記は昭和40年代の航空写真です。
前述の通り、第二期工事によって若竹貯木場が拡張されているほか、写真中央やや右、東側に現在の小樽築港3丁目である埠頭の埋め立てもなされています。
この頃も、高度経済成長期という事もあり貯木場はそれなりに賑わっていたようですがモータリゼーションの発展や石炭から石油へのエネルギー革命によって、小樽を取り巻く産業構造は転換点を迎えた時期であると言えます。
昭和48年、小樽築港の西側、かつて鉄道省の埋め立て地であった先の沿岸に『勝納埠頭』という巨大な埠頭が着工します。
規模にして48万㎡、小樽中央埠頭の3倍の面積を誇り、総事業費111億8千万円の非常に大きな計画で、昭和56年に竣工します。大型船の接岸出来る当時東京以北随一の公共埠頭であったとのことです。
また、勝納埠頭の着工から少し遅れて、昭和53年から昭和56年にかけて若竹貯木場にドルフィン=係船杭と分離堤が設置されます。
これは船舶を係留する為の施設で、荒天時の船舶の保護や大型船の係留を目的としたものです。船舶からの木材の積み下ろしにも利用されました。
この後、バブルの時代に入っていく訳ですが、船舶輸送は徐々に苫小牧港、室蘭港などの太平洋ルートへ取って代わられるようになってしまい、率直に言って、昭和61年12月~平成3年2月の間のバブル期には、特に目立った動きがないというのが実情です。
そんな状態ですから、木材があまり用いられなくなったであるとか、丸太ではなく海外で製材されてから輸入されるようになったという事情があるにも関わらず、若竹貯木場は昭和50年代に整備されたままの姿での利用が続きます。
勝納埠頭の完成に伴って、若竹貯木場との間には民間のヨット・ボートが係留される小樽港マリーナが設置されています。
クルージングや釣りの為に利用される訳ですから、これは一つバブルの影響もあったかもしれません。
昭和55年の貨物ヤード機能廃止や小樽築港貨物集約駅の廃止に伴ってかつて鉄道用地だった場所ががらんと空いたまま、遊休地になってしまった場所は、バブルとは無関係に取り残されてしまいました。
とはいえ、ものの話によりますとバブルがはじけた当時は世間にもそういった自覚が乏しく、平成3年以後もバブリーな風土というのは一部に残されていました。(その甘い認識がより傷を広げたという言い方もされますが…)
バブル崩壊後の平成3年にマイカルグループやJR北海道などの出資で設立された株式会社小樽べイシティ開発は、それ以前から検討されていた小樽築港の遊休地活用と駅舎も含む再開発を目的としていましたが、これには小樽市も深く関係していたと言われています。平成5年には小樽市が『小樽築港駅周辺地区整備基本計画』を策定、小樽ベイシティ開発が再開発の『基本構想』を発表し、翌平成6年には北海道が都市計画を決定して港湾計画を一部変更、更にその翌年平成7年には建設省によって『ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業』に指定されます。
便利な立地にある主要駅の再開発ですから当然と言えば当然かもしれませんが、このように官民一体となって再開発の準備が進んでゆきます。
平成8年には基盤整備工事に着手し、翌平成9年度には小樽築港駅3代目駅舎と複合商業施設『マイカル小樽』の工事がそれぞれ着工します。
平成11年には3代目駅舎とマイカル小樽が同年にオープンし、小樽市民はもちろん、札幌など周辺の自治体の住民から大きな期待を以て迎えられました。
これはマイカルグループが約600億円(Wikipediaでは650億円と記載)の事業費を投じて建設し、総売り場面積約9.8万㎡、ホテル駐車場なども含めた延べ床面積は34万㎡、敷地面積12.8万㎡というとんでもない規模の再開発でした。
開業当初は写真左手にあるカラフルな観覧車『レインボークルーザー』やシネマコンプレックス、石原裕次郎記念館と西部警察のテーマパーク、小樽ヒルトンホテルや各種のテナントがイベントを催しており、とても華やかだったことを覚えています。
しかし、不景気の波は根強く、また、商業施設ではあっても繰り返し訪れたいという訴求力も薄く、客足は伸び悩み、更には母体であるマイカルグループの放漫経営を原因とした平成13年の民事再生法申請と同時期に小樽ベイシティ開発が民事再生法を申請。
初年度の売上目標が500億円だったものが、2年少しの営業で負債総額が492億円…小売業は設備投資が大きいのでそんなものかもしれませんが、計算の危うさを感じてしまいます。
マイカル小樽という名称も平成14年にはポスフール小樽へ改称、更に翌平成15年には現在の『ウィングベイ小樽』へと改称されます。
マイカルグループはイオングループの傘下となりますが、テナントの撤退や閉業が相次ぎ、現在もテナントに空きがあり設備の老朽化も目立ってしまっている状態です。
平成15年には固定資産税の滞納により小樽市がウィングベイ小樽の敷地を差し押さえ、平成27年には観覧車『レインボークルーザー』を撤去・売却とあまりいい話を聞かないというのが北海道民の率直な感想なのではないでしょうか。
そして平成29年、株式会社小樽ベイシティ開発は負債総額280億円で2度目の民事再生法の申請をします。
2度も民事再生なんてもう踏んだり蹴ったり、という印象かもしれませんが、この申請ではイオン北海道に引き継いだかつてマイカルグループが保有していた小樽ベイシティ開発への債権を、企業再生ファンドであるルネッサンスキャピタルが引き受ける為の手続であり、あくまでもウィングベイ小樽を立て直すための手続と捉えるべきでしょう。(勿論、賛美両論はありますが。)
現在、ウィングベイ小樽はルネッサンスキャピタルの元での再生を目指してゆく事になっています。
また、暗い話ばかりを前に持ってきましたが平成20年にはニトリ、平成24年にはスーパービバホームがそれぞれ大規模な店舗を出店していますし、立地は間違いなく良いエリアですから、これまでのマイナスイメージを払底し、再起することを願って已みません。
当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
⼩樽・後志エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・余市・手稲・⽯狩の各店舗への依頼をお薦めします。
細井 全
【参考文献】
◇小樽港湾建設事務所『写真集 小樽築港100年のあゆみ』平成9年
◇小樽市『若竹地区水面貯木場及び周辺有効活用計画』平成27年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第7巻 ⾏政編(上)』(新版)平成5年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第8巻 ⾏政編(中)』(新版)平成6年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第9巻 ⾏政編(下)』(新版)平成7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇⼩樽市『未来のために=⼭⽥市政3期12年をふりかえって=』平成24
年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『小樽』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部二万五千分の一地形図『小樽東部』大正8年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽東部』昭和31年
◇国土地理院 航空写真各種
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇朝日新聞DIGITAL『大型商業施設「ウイングベイ小樽」、民事再生法を申請』平成20年12月8日15時08分
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