2019.05.22郷土誌から読み解く地域歴史情報

小樽市桜の歴史 ~昭和(戦前)編~

さて、前回は北海道では珍しい江戸期からの(和人の)歴史のある地区、熊碓(クマウス)こと小樽市桜が明治・大正の時代にどのように姿を変えていったのかを紹介しました。
当時の小樽市桜には閤戸時代以来それなりに人が住んでいたものの、その姿は現在とは大きく異なったものでした。
今回は引き続き激動の昭和で、『熊碓』と『寺澤』が『桜町』に生まれ変わった経緯について、説明してゆきましよう。

これが大正5年時点、まだ『熊碓』『寺澤』たった頃の小樽市桜です。

 

結果から出してしまうと、戦後昭和25年、『桜町』となった後の姿がこれです。

円形交差点『桜ロータリー』が出来上がっています。
熊碓のうち国道5号線より北側のエリアが船浜町として分離しています。
さて、先に結果をお見せしてしまっておいて何ですが、時系列順に事情を説明してゆきましよう。

昭和6年、札樽国道=現在の国道5号線の大改修工事が始まります。
これには平磯隨道=平磯トンネルの整備が含まれます。
…と、言うのも大正の地形図を見て頂ければ分かる通り、従来、国道は平磯岬を大きく迂回していたのですが、これでは崖崩れの危険もあり、また、線路とルートが被ってしまっており不便だということで、新たにトンネルが整備されてルートが改められることになったのです。
確かに大正5年の地形図では、平磯岬を迂回した後のルートが鉄道線路と重なって見えなくなってしまっていますね。
その頃の平磯岬を迂回していたルートは現在、小樽築港、ウィングベイ小樽へ通じる道路になっています。

ちなみに、大正より以前は平磯岬北側ルートではなく、もっと南側を迂回をして寺澤の峠道を越えて行っていたようです。この辺りは道の付き方でもよく分かりますね。
この話を聞きつけて、この周辺に見込みがあると踏んだのが実業家の野口喜一郎氏。
『北の誉』で有名な造り酒屋、『丸ヨ野口商店』の社主です。

こちらは大正当時の広告、父親で創業者の野口吉次郎氏が明治30年に醤油醸造として独立し、明治41年に喜一郎氏が事業承継して酒造に力を入れ、のちにこれが北の誉酒造株式会社となります。
広告に記載の小樽市稲穂町東6丁目とは、現在の小樽市稲穂3丁目に該当します。小樽駅前のメインストリート『中央通』のすぐ近くにある、小樽の中心部に立地しています。
平成19年に北の誉酒造株式会社はオエノンホールディングス株式会社に買収され傘下となりますが、北の誉という日本酒ブランドは現在も生きていますね。残念ながら小樽からは平成27年をもって撤退していますが…

他にも様々な事業を手掛けた野口喜一郎氏ですが、それはWikipediaでも見て頂くとして、現地を調査をした上で『熊碓』『寺澤』に将来性を感じた野口喜一郎氏は河村岩吉氏とともに東小樽土地株式会社を設立し周辺の買収を計画します。
しかしまあ、これはもはや不動産あるあるなのですが『売ってくれ』と言うと売り渋られて価格提示が高くなってしまうという傾向がありまして、値上がりを期待した土地所有者から土地を買えなくなってしまい、当初中心部の約6万坪を買収したところで計画が頓挫してしまいます。
これを『人は「入れ!」と言うと用心して入らない「入るな」と言うとムキになって「入ってくる」』の法則と言います。(心理学用語では『ブーメラン効果』と言います。)

『桜町由来小誌』によると、この計画が北海道庁に知られて測量や地元住民への説得などの協力を受け、熊碓が属する朝里村の村長からも全面的な協力を受けて一気に計画が進んだということです。
ただ、野口喜一郎氏は既に名の知れた地元の名士ですから『計画が知られて』というよりは野口氏の側近が北海道庁や朝里村に協力を仰いだというのが実際のところなのではないかと思います。
そんなこんなで、昭和8年9月には40万坪にも及ぶ土地区画整理事業の計画案が完成します。

土地区画整理事業とは、道路や都市設備のない一面の土地を区分けして都市設備を整備して再配分することです。
上の画像は現代の土地区画整理事業に関する解説ですが、戦前の改正前でも概要は同じです。

当初の計画と異なる点として、すべてを野口喜一郎氏らが購入して分譲するのではなく、元々の地主が土地の所有権を有したまま、整理後の宅地を手に入れられるということです。

つまり、当初の計画で問題になった売り渋りを回避することが出来たという訳です。

昭和9年3月には、内務省に(現在の総務省)熊碓土地区画整理組合の設立認可の申請書を提出し、同年7月には正式認可となります。(曰く、スピード認可だったとのことです。)
認可を受けて、設立総会が開催され、すぐに『東小樽土地区画整理組合』へ名称変更されます。
熊碓土地区画整理組合という名称は認可を受けるまでの4ヶ月程度しか使われなかったということで、東小樽土地株式会社との兼ね合いもあるのでしょうが、何か不自然な印象がありますね。

翌年の昭和10年4月には本格的に事業に着手し、区画整理の事業費22万円は組合名で北海道銀行と北海道拓殖銀行から借り入れ、組合の全役員が連帯保証人となったそうです。
儲け話だとはいっても、当時の貨幣価値を考えればかなり冒険的な投資ですが、小樽の中心部で造り酒屋をする素封家の野口氏が組合長、当時の朝里村村長の田中作平氏朝里村の額漁親方で朝里温泉の掘削にも携わった渡辺得郎氏の2名が副組合長になっており、他の組合人も名士・実業家であったので無事に融資を受けられたとのことです。

そして、札樽国道との分岐点に土地区画整理組合事務所を建設し、分岐点から旧金毘羅神社跡地=現在の熊碓神社境内地に続く『第一号幹線道路』が開削され、両側には八重桜が数十本植樹されました。
これは現在の『桜町本通』であり、一緒に『桜ロータリー』も造成されます。
桜町本通こと『第一号幹線道路』ですが、冒頭に示した2つの地形図を見比べて頂くと分かりますが区画整理前にあった『寺澤』を南北に走る道路(熊薄川河口から金毘羅神社への参道)からは若干西側にずれています

写真左側に見える建物のある場所か、その向かい側(写真の左背後)に組合事務所があったものと思われます。

昭和11年と昭和12年には『第二号幹線道路』『第三号幹線道路』の開削が開始されます。このうち『二号』は現在の『東小樽線』≒『市道桜一号線』です。
これ、更に別に『桜第一通』というものもあって、『第一号幹線』と『市道桜一号線』の3つの道路はそれぞれ別の道路を指している為、メチャクチャ紛らわしいんですよね…

『第二号幹線道路』=『東小樽線』≒『市道桜一号線』は札樽国道から桜町本通よりも札幌側・東側で分岐して山の上へ登ってゆきます。

そこから蛇行し、ENEOSの横から桜ロータリーを経由します。

ロータリーの反対側のうち、ほっともっと小樽桜店と赤い屋根の賃貸アパートの間を通り抜けます。

現在は高速道路の高架をくぐって、平磯岬を経由して若竹町方面に抜けてゆきます。
後述する『銀鱗荘』は途中までこの道路を利用してゆくことになります。

そして、桜ロータリーに接続する最後の道路『第三号幹線道路』は先ほどのほっともっと小樽桜店と、セブンイレブン小樽桜町店との間を抜ける道路で、こちらも山側から若竹町へ抜けてゆきます。

 

このようにして、3本の道路による5つの接続によって桜ロータリーが出来上がりました。
昭和11年にはこのロータリー付近に2軒のモデルハウスが建築されたそうです。

このようにして桜ロータリーを中心に進んでいた土地区画整理事業ですが、昭和12年7月に支那事変≒日中戦争が勃発してしまいます。
支那事変が拡大してゆくにつれ、職員にも動員が相次ぎ人手不足が生じた他、戦時の萎縮ムードも蔓延して売れ行きも停滞してゆきます。

しかし、一度初めてしまった事業をやめる訳にはいきません。
昭和13年には余市村にあった猪俣魚場という豪奢な鰊番屋の建物を高級旅館『銀鱗荘』として宿泊施設に移築・転用。
これは現在もニチイグループに引き継がれて運営されていることは概要を紹介した際にご紹介した通りです。

銀鱗荘の開業と運営にあたっては、野口喜一郎氏が別事業として社長を務める『北海ホテル』の支配人である盛田襄氏が取り仕切りました。

北海ホテルは大正5年に開業した北海道初のホテルです。
上記は大正11年当時の広告ですが、本店の所在地、小樽市稲穂町東5丁目は、冒頭で紹介した丸ヨ野口商店(北の誉酒造)とは駅前の中央通を挟んだ向かいの区画、現在の小樽市稲穂2丁目に相当します。

そして、住宅分譲についても残りの計画街路を一挙に施工し、宅地造成については昭和13年に完成を見ます。
支那事変による販売の低迷を打破すべく、パンフレットを配布したり国道沿線へ看板設置を設置してプロモーションに励み、見学者は増加したとのことですが、決して順調であったとは言えないようです。

造成工事の完了に伴い昭和14年には、元々の地主との間で『換地』の精算業務が進んでゆきます。それに合わせて『替費地』=保留地の処分も進みます。
『替費地』とは、土地区画整理事業に伴って元の地主から徴収した土地のうち、区画整理の費用を捻出する為に第三者に売却をするための土地です。
『桜町由来小誌』では区画整理や分譲活動にあたっては、『小樽市内著名土地仲立業者(月曜会員)』が協力した、と書かれていますが月曜会といえば三井グループですから、別の月曜会でなければこれは三井不動産を指しているのではないか、と思います。・‥何故こういうボカし方をしているのかは分かりません。

昭和15年には前年に進んでいた事務手続きの成果として換地に関する認可が下り、土地区画整理事業が完了。
しかし、分譲用の『替費地』の売れ行きは芳しくありません。
翌年にはアジア太平洋戦争が勃発してしまうような状況の中、区画整理事業当初に組合名で借入れた22万円は昭和15年時点で15万円も残っていました。

Σ(゚Д゚;ほとんど返済出来てない…

この借入金15万円と残された分譲地はすべて野口喜一郎氏が引き取ることになり、戦時中のことなので詳しくは分かりませんが分譲事業は一応継続していたものと思われます。

また、終戦前の昭和18年には小樽市大字熊碓村大字東小樽であった町名が桜町船浜町、そして豊倉へ分割されます。
船浜町は初回の記事で紹介した、国道5号線を挟んで海側のエリアですが、豊倉の地名は現在残っておらず、豊倉・明・社や豊倉小学鉱の所在地から、概ね現在の朝里川温泉1丁目となったことが伺えます。

そして、昭和20年の終戦を迎えます。
戦時期には経済的な問題や軍事機密の面でしょうが、地図の発行が少なく、内務省地形図も昭和10年に発行されて以後、戦後まで発行が止まってしまっていますから、小樽市桜についても区画整理後の地形図は戦後のものになってしまうんですね。

一方で、米軍は日本を占領するにあたって、地理の把握や管理のために、全国で航空写真を撮影しました。
その際の資料が現在、国土地理院に引き継がれて国民に公開されているのですから数奇なものです。
昭和22年に米軍が撮影した航空写真を紹介しましよう。

桜ロータリーと接続する5つの道路の姿が見て取れます。
現在の桜1・2・5丁目付近には建物が増えてきているようです。
街区道路はすべて工事が完了しているといいますが、当時はアスファルト舗装などしていない砂利道ですから、17mの幅員のある第一号幹線や、メインストリートの二号、三号以外は写真ではうっすらとしか読み取れませんね。

さて、白黒写真だけでは分かりづらいものがありますから、冒頭にお見せした昭和25年の内務省地形図を紹介しましよう。

前回の地形図から35年が経っている上に土地区画整理事業によって、町の様子は様変わりしていますね。
新たな施設として長昌寺の南側に量徳寺東小樽支院や小樽市立桜小学校が移築されています。(写真右側の屋根が量徳寺支院です。)

このようにして小樽市桜は区画整理から80年ほどが経過しますから、土地建物の流通はその後も活発に行われています。
桜は小樽と札幌の中間に位置し、便利な立地ではあるのですが不動産売買を考えた場合には、案内も含めどの不動産業者に依頼をするのか、ということが大きな問題になってきます。
後志エリアでの不動産売買は豊富な取引実績を持ち、小樽・余市・手稲・石狩に店舗を有しフットワークの軽いイエステーション:北章宅建株式会社への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇小樽市役所『小樽市桜町由来小誌』昭和42年
◇小樽市役所『小樽市史第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史第3巻』(旧版)昭和19年
◇金子信尚『北海道人名辞書』大正12年
◇小樽商工会議所『小樽商工名録大正11年版』大正11年
◇北海道神社庁熊碓神社(小樽市)
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/04/04008.html
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『小樽』明治29年測量、明治42年加筆
◇大日本帝国陸地測量部二万五千分の一地形図『小樽東部』『石倉山』大正5年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽東部』『張碓』大正5年
◇国土地理院米軍撮影航空写真『10470929 USA-M531-9 』昭和22年

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