2020.01.10郷土誌から読み解く地域歴史情報
北海道新幹線『新小樽』駅の歴史 〜明治・大正・戦前編〜
さて、前回は北海道新幹線新小樽駅の建設予定地の現在の状況と計画図について紹介しました。
新小樽駅が置かれる予定地、天神2丁目はどのような経緯を経て現在に至るのでしょうか。
以前の記事でも紹介をしましたが、新小樽駅の予定地は奥沢水源地と後志自動車道の間にあります。
前回紹介していませんでしたが奥沢水源地は小樽市中心部への上水供給を一手に担っており、他にも朝里・銭函方面への給水も一部担っているという小樽市にとって非常に重要な水源であると言えます。
また、この周辺では以前まで小樽市天神ごみ焼却場という施設で小樽市内の燃えるゴミを処理していたそうで、それに関連する施設は現在も残っていますが、平成13年には焼却処理を終えてしまいます。
その頃にダイオキシンが社会問題となり、環境基準が高くなったのに対応できなかったとのことです。
その後、平成19年にはここ天神からずっと西側の小樽市桃内に北しりべし広域クリーンセンターが竣工し、周辺の小樽市、積丹町、古平町、仁木町、余市町、赤井川村の6市町村のゴミ処理を一手に引き受けています。
南小樽駅から勝納川を遡ること3km、新小樽駅の予定地は従来、水源とごみ焼却場という必要不可欠なインフラを担っていた、ということが、歴史において重要な意味を持つのです。
それでは、順を追って歴史を紹介してゆきましょう。
現在の小樽はオタルナイ場所として江戸時代から栄えていたことは以前ご紹介した通りですが、まだまだここまでは人の手が入っていなかったようです。
慶応元年に勝納川から用水路を分岐させて(海の側から)金曇町、土場町、新地町、芝居町が開拓され、明治政府においてもその地名が引き継がれます。
明治初期、最も上流の山側に所在する芝居町には広く勝納川上流の現在の奥沢や天神が含まれていました。
明治7年には芝居町から上流の一帯が奥沢村として分離されます。
上記は明治29年測量・明治42年修正の大日本帝国陸地測量部発行の5万文の1地形図です。
山に囲まれた谷知にうねうねと蛇行した道が描かれています。
『奥澤』と『大曲』という地名が記載されていますが、このうち『大曲』については現存していない地名です。
北海道内で『大曲』というと北広島市の大曲が有名ですが、この他にも江別や石狩など、明治~戦前までは全道各地に『大曲』という地名がありました。
私の研究対象として、全道各地に所在している『大曲』と呼ばれていた場所の蒐集がありますが、こちらもそのうちの一つで『小樽大曲』と呼んでいます。(今のところ小樽の他の場所に『大曲』という地名は見当たっていません。他に見つかった場合には『奥沢大曲』とでも呼ぶことになるでしょう。)
明治後期の当時には奥沢の最奥部には人家がありませんが、もっと下流も含めて奥沢村とされていましたから、徐々に沿岸部から山の手へ人口も広がってゆくにつれ奥沢村の人口も増え、明治39年に奥沢町へ昇格することになります。
この頃には度重なる大火によって市街の中心が現在の南小樽駅周辺から北上し、現在の小樽駅周辺へと移動してゆくさなかでしたが、港湾部から山の手側へも市街化が進んでゆきました。
また、小樽の発展に付随して都市施設の充実も急務となってゆきました。
明治の末期には奥沢浄水場と小樽市天神ごみ焼却場の原型が整備され始めます。
まず、奥沢浄水場は人口密度が上昇していった都市部への飲料水の供給も重要ですが、それ以上の需要として、国際的な港湾である小樽港に寄港する船舶への真水の供給という役割も担っていたのです。
港町ではよくある事ですが、井戸を掘っても海水が混じってしまうので地下水はなかなか使えない・・・とすると、川から水を持ってくるのが常道な訳ですが、一方で川の水を上水道として整備するには多大な資材と手間、ひいては莫大な費用が掛かる、という訳です。
小樽は海沿いの崖地の町であった為、水量のある川はさほどありませんが、勝納川についてはこの奥沢の先の山地から湧き出た豊富な水量によって、明治には水車による脱穀が盛んであったと言われています。
そのようにして、奥沢浄水場は明治中期からその必要性が語られはじめ、原資の問題など紆余曲折はあったものの明治41年にようやく工事に着手、明治44年に竣工したもののその後の大雨などで崩壊した箇所などがあり、水道施設としての通水が開始したのは大正3年になってからのことでした。
一方のごみ焼却場の起源は小樽市史を紐解いても、『明治後期』という記載だけで具体的な年数は示されていません。・・・と、言うのも小樽のごみ処理は当初民間だけで担っていたものを、のちに官営に移管した経緯があり、奥沢のごみ焼却場の前身となった民間施設がいつ・どのように設置されたのかは今のところ分かっていません。
実はごみを一ヶ所に集めて燃やすという行為は比較的近代的なもので、開港や経済の発展によってコレラやペストの流行が社会問題となり、これを受けて明治33年に施行された汚物掃除法で初めて法制化されました。
それまでの塵芥処理は埋め立てが主でしたが、埋立地の確保が難しくなっていったことや、衛生面・防疫面の問題から、焼却処分が重要になっていった訳ですね。
明治末期に民間で設置された天神焼却場はいつからか官営に移管され、大正10年に大改築され、焼却能力を向上させます。
さて、行政面では大正4年に奥沢町から天神が分離され、新小樽駅予定地周辺は天神という町名になります。
また、勝納川の豊富な水量は奥沢の酒造や工業が盛んな地区としての役割を支えることになります。
また、勝納川の豊富な水量醸造業や工業に活用されたことを述べた通り、以前、『小樽市桜の歴史 ~昭和(戦前)編~』という記事で紹介をした北の誉酒造も明治35年に奥沢町に醸造所を設置し、それまでは丸ヨ野口商店として醤油醸造が主軸だったものを徐々に酒造にシフトしてゆきます。
他にこの周辺で有名な企業を紹介しますと大正8年に設立された北海ゴム工業合資会社が昭和5年に他のゴム会社との合併などを経て三馬ゴム工業合資会社となります。
これは現在も根強い人気を誇るミツウマのゴム長靴のミツウマです。
このようにして、新小樽駅建設予定地には明治後期から大正にかけて奥沢水源地や天神ごみ焼却場、ミツウマなどのインフラや商工業施設が次々と出来上がってゆきます。
大正8年、大日本帝国陸地測量部発行の5万分の1地形図を見てみましょう。
明治期は『奥澤』だった地名が『天神町』に改められていますね。
また、大正3年の水源地の稼働を受けて現在もある奥沢ダムや階段式溢流路、そして奥沢ダムの北東側に水道濾過池が地形図に示されています。
道路が整備され、しっかりとした形で記載されていますね。
現在も小樽の中心部全体と東部の朝里・銭函地図の一部への飲用水供給を担う巨大な水道設備、奥沢水源地はこのようにして整備されていったのです。
しかし、ここから戦後にかけては設置された都市施設をこれ以上に開発を進める余力はなかったようです。
今回は新小樽駅の予定地は小樽を支える必要不可欠なインフラを担ってきたことを説明しましたが、次回はこの奥沢・天神という戦後から平成にかけて、新幹線のルートが決定し、駅の予定地がどのような変遷を辿って行ったのか、説明しましょう。
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細井 全
【参考文献】
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第7巻 ⾏政編(上)』(新版)平成5年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第8巻 ⾏政編(中)』(新版)平成6年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第9巻 ⾏政編(下)』(新版)平成7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇⼩樽市『未来のために=⼭⽥市政3期12年をふりかえって=』平成24
年
◇小樽港湾建設事務所『写真集小樽築港100年のあゆみ』平成9年
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『仁木』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『仁木』大正8年
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