2020.09.09地域歴史情報

”美しき唄のまち”『美唄』の歴史 ~明治編~

さて、最近の北海道の全国区の有名人といえば、北海道出身者ではないものの前夕張市長である鈴木直道北海道知事の名前が挙がるのではないでしょうか。
知事就任以来、様々な施策を手掛けていますが、その中の一つに令和2年に行なった北海道が管理するダムのネーミングライツ(命名権)のスポンサーを募集する、というものがあります。
スポーツ競技場などではすっかり定番化しているネーミングライツですが、ダムについては平成23年に宮城県が全国で初めて募集をしたのが最初との事です。
そのようにして北海道が管理するダムのネーミングライツ・スポンサーが公募され、令和2年7月21日美唄ダム朝里ダムのネーミングライツについて権利を取得したのが、イエステーション:北章宅建です。
その為、本記事掲載時現在の正式名称はそれぞれ『イエステーション北章宅建 朝里ダム』『イエステーション北章宅建 美唄ダム』となっています。
朝里ダム周辺の歴史については、以前3つの記事に渡ってご紹介しましたが、美唄ダムについてもいずれ紹介してゆくことになると思います。

美唄ダム
さて、美唄ダムのことをとやかくと書く前段として、『美唄』の歴史について、特に中心部にフォーカスを当てて紹介してゆくことにします。
今回は東部(東美唄)の炭鉱地帯である我路や南部の峰延駅周辺、北部の茶志内駅周辺については、さほど触れてゆきません。

 

美唄市は北海道第一、第二の都市である札幌市と旭川市を結ぶルート上に位置し、南側を岩見沢市、北側を奈井江町と隣接します。
道央のこの周辺広域を空知地方と言い、現在も空知総合振興局という行政区分が存在していますが、このエリアの特色は、札幌と旭川を結ぶ国道12号線と函館本線という道路と線路、2つの陸路のルート上にあり、かつては炭鉱の街として発展してきた、という歴史を持つ点にあります。
そして、これら空知エリアでは明治から昭和前半にかけて、石炭の一大産出地であり、その石炭が主に函館本線を経由して小樽港へ、途中から室蘭本線に接続して室蘭港へ運ばれていった訳です。
同様の特徴を持つ自治体としては、岩見沢市、三笠市、赤平市などがありますね。(夕張市や芦別市も空知エリアの炭鉱都市として有名ですが、札幌ー旭川ルートの途上に所在していない点が異なります。)

 

こういった石炭の算出に関わる空知エリアが『炭鉄港』として令和元年5月20日に文化庁によって日本遺産に認定されました。

炭鉄港 美唄

ちなみにイエステーション:北章宅建の拠点の一つであり4つの支店を有する小樽市も、明治以前から栄えた港湾として『炭鉄港』と認定されています。

 

さて、空知エリアにおいて同様の特徴を持つ自治体も他にあるなかで、特に美唄市、というと何が有名でしょうか。
札幌に住まっている人間の視点で言えば『美唄やきとり』の名前を聞くことが最も多いように思います。
「北海道の焼き鳥は鶏肉ではなく豚肉を使う」という話は一部では有名になっていますが、豚肉を使うので有名なのは室蘭焼き鳥で、美唄やきとりは、鳥のモツや皮なども含めた様々な部位を一本の串焼きにするタイプの焼き鳥です。豚串もありますが、基本的には鶏肉を使ってゆきます。

美唄焼き鳥

では、それ以外の名物は何か?
美唄市出身の世界的彫刻家、安田侃氏の美術館、アルテピアッツァ美唄があります。

アルテピッツァ美術館

他にも美唄市の鳥であるマガンの飛来地であり、ラムサール条約に登録されている宮島沼がある他、昨今は米や麦などの穀物を中心として農業が盛んなエリアとなっています。

 

さて、そんな美唄市の歴史について紹介してゆきましょう。
令和元年にキャンペーンが張られた北海道150周年に、北海道の命名者として有名になった松浦武四郎氏は江戸時代末期に北海道全土を川伝いに巡り、各地の地名を記録しており、美唄も訪れていました。
明治5年明治9年にはお雇い外国人として開拓使に雇われたアメリカ人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマン氏が、美唄を含む空知エリアに石炭が豊富に埋蔵されていることを調査・発見します。
また同時期の明治5年には開拓判官の岩村通俊氏に命じられ開拓使職員の高畑利宜氏が上川調査を命じられ、札幌から石狩川を上流に遡って調査を行います。

高畑利宜の写真

上記のパネルは滝川市郷土館の展示ですが、この高畑利宜氏が明治における空知・上川エリアの開拓の重要人物であり、この記事でものちほど登場することになります。
ちなみに、写真のパネルの記載は明治4年となっていますが、美唄市史などの記載では明治5年となっていますので、記事の記載はこちらに従います。

明治前半のここまでの段階で、空知・上川でのについては川伝いでの船移動が主体であって、道路は開拓されておらず、よって和人の入植も進んでいませんでした。

 

空知・上川の開拓が大きく進む転機は明治19年頃から始まる道路整備事業に訪れます。

上川仮道路

明治19年5月、現在の国道12号線の原型である『上川仮道路』が着工し、同年には一つ東側で美唄よりも開拓が進んでいた市来知村(現在の三笠市)から、美唄川の南岸に富山県出身の福島磯次郎氏が渡し船の守り人として美唄への和人最初の移住者になります。
『上川仮道路』は、当時の市来知~忠別太間を結ぶ道路であり、着工からわずか3ヶ月後の明治19年8月に開通しています。
ただし、これはあくまでも『仮』道路であって、幅2mで草木を刈り取っただけの道です。
上記の写真のように道幅が広く、当時としてしっかりと整備されて馬や馬車も通ることが出来る本道路『上川道路』はこの後、明治20年明治23年の間で整備されます。

 

なお、上川道路は市来知~忠別太間の道路と記載し、市来知村は現在の三笠市と記載していますが、のちに市来知村の一部が美唄(沼貝村)に編入されており、現在の国道12号線のうち、上川道路部分の始点は美唄市と三笠市の境界となっています。

美唄の直線道路

国道12号線のうち美唄~滝川間の部分は直線距離29.2kmもあり、『日本一長い直線道路』とも呼ばれています。
このような長距離道路が僅かな期間で開通したのには明治15年に設置された樺戸集治監(のちの樺戸監獄)の存在が大きな役割を果たしています。

樺戸監獄

江戸時代では、罪を犯した者に対しては身体的刑罰(肉体の一部を欠損させるものや肉体的苦痛を与えるもの、刺青の強制など)が行なわれていましたが、明治維新の一環として当時の観点での『近代的』な刑罰が取り入れられることとなり、その中には公共工事への従事が含まれていました。

 

実は、上川道路の開削を統括していたのは前述の高畑利宜氏で、一時は下野していたものが初代北海道庁長官となっていた岩村通俊氏から命じられ、樺戸集治監の二代目典獄である安村治孝氏の協力のもと、囚人を従事させることで道路開発を担うこととなりました。

展示される囚衣

樺戸集治監は美唄の西側に所在する月形村(現在の月形町)に所在していますが、『上川”仮”道路』『上川道路』の工事に先立ち、月形村と沼貝村・市来地村とを結ぶ道路として明治19年『峰延道路』・・・現在の道道275号線:峰延月形線が開削されます。

『峰延』は現在の美唄市の南端に所在する地名で、JR函館本線の『峰延駅』もこの後の明治24年に北海道炭礦鉄道の駅として開業しています。

鉄道工事測量隊

 

上川道路と並行して鉄道工事も突貫で行われましたが、こちらについては各種資料で囚人の労務に関することはさほど取り上げられていません。

 

このようにして、樺戸集治監の囚人が工事に従事して開削された訳ですが、ざっくり言うと『可能な限り真っ直ぐ作るように』という指示から、泥濘地や軟弱地盤地で道路建設が困難な場所であっても、強制的に直線道路として開削されることになったということです。
ヒグマやエゾオオカミも出る原生林の中で、昼夜を問わず工事が実施されたその惨状たるや想像するに余りあるものがありますが、歴史の話をする際に現代の社会常識や倫理観を持ち込んではならないものとご理解下さい。

 

また、樺戸集修監と同年に市来地村(三笠)に空知集治監も設置されていますが、炭鉱労働が主体だったのか、上川道路の開削については、樺戸集治監の囚人の事ばかりが記録に残されています。

北海道屯田倶楽部

そのようにして明治23年上川道路の竣工(およびそれに先立つ上川仮道路の竣工)によって、空知・上川の各所に屯田兵が入植し、美唄市の前身である沼貝村が誕生します。
そう、美唄市の開拓当初の名前は沼貝村だったのです。

 

そも、現在の『美唄』というのは北海道の多くの自治体に漏れず、アイヌ語由来で、ピパイ、ピパオイなどから転訛したと言われています。
『ピパ』とは淡水生の貝類を意味し、カワシンジュガイカラス貝ドブ貝などが多く取れる場所、川といった意味があるそうです。
そういった貝類の俗称の一つとして『沼貝』があり、つまり沼貝村とはアイヌ語地名を日本語訳した地名であるという事です。

また、前述の『峰延駅』設置の同じく明治24年には『美唄駅』が設置されており、その周辺の地名も沼貝村字ピパイとされ、明治33年には沼貝村字美唄となりました。
『ピ』と『ビ』・・・半濁音と濁音とは古来さほど厳密に区別されていなかった経緯もありますから、当時からアイヌ語と日本語訳の呼称が混在していた訳ですね。
鉄道の駅名がのちに正式な自治体名となった例としては、札幌近郊では広島町→北広島市のような例がありますね。

 

道路の開通、鉄道駅の設置=鉄道の開通、そして沼貝村の開村は、屯田兵の入植と切っても切れない、明治政府と北海道庁による国防のための政策的措置であったものだという事は容易に推察されます。
明治23年に美唄・・・沼貝村に設置された屯田兵は屯田兵特科隊という、特に騎兵を中心に編成された特殊な部隊でした。

美唄屯田騎兵隊の本部

屯田兵の設置後、実際の入植は明治24年から明治27年までの各年に行なわれ、それぞれの入植地が戦後まで『美唄○○年兵』と呼ばれていたようです。(そのように地名の記載がなされている地図については次回以降紹介します。)

屯田騎兵隊集合写真

【各年の屯田兵の入植地の大まかな位置】
美唄二十四年兵・・・現在の美唄駅の北側
美唄二十五年兵・・・現在の美唄駅の南東側
美唄二十六年兵・・・美唄二十四年兵の更に北側、茶志内駅より南側
美唄二十七年兵・・・現在の美唄駅の南西側

 

美唄への屯田兵の入植はこの4ヶ年のみの事ですが、屯田兵全体のことに触れますと、明治20年代からは大規模な入植地が確保出来なくなったこともあり、屯田兵の入植は減少してゆき、徴兵制で兵員を確保できる程度に北海道の人口が増加した事によってその役目を終え、明治32年に上川と士別に最後の入植をしたのち、明治37年には屯田兵制度自体が廃止されます。

 

このように美唄への大規模な入植は屯田兵が始まりでしたが、屯田兵だけが入植していた訳ではありません。
明治27年に、三重県などから中村豊次郎氏をリーダーとした移民団が石狩川に近い美唄北西部に入植し、のちにその周辺は中村地区と呼ばれるようになります。
現在も美唄市中村町という地名が石狩川沿いに残されており、川を渡った先には月形町が所在しています。
同年に富樫農場(鷲見農場)葵農場(桜井農場)山形団体開発地域大曲地域、翌明治28年には京極農場明治29年には美培農場(津軽農場)と、屯田兵以外の入植が次々と進んでゆきます。
水利組合明治35年には水利組合の手によって美唄川の上流に第一水利組合用水路が完成します。
美唄に限らず農業用水の確保については営農における重要な要素ですが、この水利組合には屯田兵も、そうではない開拓民も両方が参加していたものと思われます。
明治39年には、市来知村の一部を編入して二級町村として空知郡沼貝村が成立します。
編入された部分は上川道路の始点付近である現在の三笠市の南端部分と思われますが資料が見当たっていません。
明治40年には市街地での大火事もあったようですが、明治42年には一級町村へと昇格します。

明治45年、前述の中村農場北海道発の蒸気機関による機械式陽水によって石狩川から農業用水を引いたとのことです。

 

さて、大日本帝国陸地測量部が作成した明治期の5万分の1地形図を見てみましょう。

明治29年の奈井江・岩見沢の地図

行政区分としては『沼貝村』との記載になっていますが、線路部分には駅名の『美唄』と記載されており、フリガナは『ピパイ』となっています。
また、駅の南西側には『屯田騎兵隊』があり、既に上川道路と北海道炭礦鉄道が整備されている事が分かります。
現在の国道12号線とJR函館本線が南北に縦断する現在の市街の骨子は既に出来ているということが分かりますね。
地図には南側から『七号橋』『十一号橋』と記載されており、特に山間に所在しており川筋が入り組んでいる美唄の地形がよく分かりますね。
今回は美唄駅を中心としたエリアにフォーカスを絞って紹介をしていますので、南側の上川道路の始点・峰延周辺の地図は紹介しませんが、岩見沢との境界付近に一号橋、峰延駅付近に二・三号橋があり、光珠内駅付近には四~六号橋があります。
更に北側の奈井江、砂川の間までに数字が増えてゆき、確認できた範囲では十七号橋まであったようです。

 

さて、明治期の美唄は上川道路の整備に伴う開拓使の入植によって沼貝村として始まり、明治期は農村地帯としての整備を行ってきた訳ですが、続く大正、昭和、平成ではどのような経緯を経て、そして令和の現代に繋がってゆくのでしょうか・・・

 

当記事は『イエステーション:北章宅建 美唄ダム』のネーミングライツと同様にイエステーション:北章宅建のスポンサーでお送り致しました。
空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購⼊・賃貸・管理についてのご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年

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