2021.04.23郷土誌から読み解く地域歴史情報
南美唄・光珠内・峰延の歴史 -明治・大正編ー
以前、北章宅建イエステーション美唄ダムのネーミングライツ取得を記念して、美唄市中心部の歴史について紹介して来ましたが、今回は美唄市の中心部よりも南側のエリア、『光珠内』『峰延』そして過去に廃駅となった『南美唄』の歴史について紹介してゆきましょう。
このエリアは美唄市の南東側に隣接する三笠市とも関係が深いものの、三笠市が札幌と旭川の間を縦断する幹線道路である国道12号線より奥まって所在しており、接面が大きくない事から、空知総合振興局の中核である岩見沢市とも南西側で隣接しており、関係の深いエリアです。
札幌と旭川を結ぶJR函館本線の特急は美唄駅にしか停車しませんから、峰延駅や光珠内駅はさほど都市化されていません。
現在の特急の名称には『カムイ』と『ライラック』がありますが、これは平成29年のダイヤ改正により現在の名称となったもので、比較的若い世代には平成19年~平成29年の間の名称であった特急『スーパーカムイ』の方が馴染みが良いかもしれません。もう少し上の世代の方は特急『スーパーホワイトアロー』でしょうか。
このJR函館本線の前身は明治15年開業の官営幌内鉄道ですが、当初は札幌から三笠までを結んでいました。それが紆余曲折あって明治22年に北海道炭礦鉄道が事業を承継し、砂川を経由して歌志内へ至る経路が開通し、ルートの途上である美唄駅と峯延駅(現:峰延駅)が明治24年に開業します。
当時は砂川より先で旭川(忠別太)へは向かわず、東方向の歌志内へ向かっていましたが、これは歌志内での石炭の積み出しを目的としていた為で、このルートは昭和63年に廃線となった国鉄歌志内線の前身でもあります。
これと並行して明治19年に『上川仮道路』、明治20年~明治23年の間に『上川道路』が整備され、これが国道12号線の前身となったのは以前紹介した通りです。
また、明治20年以降に行なわれた屯田兵の拡充によって、当時の沼貝村では『美唄○○年兵』と呼ばれる入植が明治24年から明治27年までの各年に行なわれ、このうち美唄駅と峯延駅の中間付近、南美唄周辺に『美唄二十五年兵』と呼ばれる集落が形成されました。
また、光珠内周辺には同様に明治24年から明治27年にかけて『高志内兵村』が設置されます。これは屯田砲兵隊とも呼ばれ、騎兵を中心とした美唄屯田兵村とはまた違った役割を担っていたようです。
兵村はイコール独立した自治体、という訳ではなく、高志内兵村というのは部隊・駐屯地としての名称であって、行政区画としては沼貝村に含まれていたようです。
明治33年、峯延駅は現在の表記である峰延駅へ表記を変更します。
屯田兵の入植などで人口も増加し、近隣には峰延炭鉱という炭鉱も拓かれ、駅との間を結ぶ馬車軌道なども設置されたようですが、明治40年には閉山してしまっています。短い運命でした。
また、明治39年には鉄道国有化法によって北海道炭礦鉄道は国有化され、峰延駅も国鉄に組み込まれます。
明治の時点では、まだ光珠内駅や南美唄駅の影が見えてきません。
屯田兵の入植などで、地形図から見る限りでは人家の数はむしろ光珠内や南美唄の方が多かったようですが、蒸気機関車が停車するには勾配が急であったようで、駅は設置されなかったようです。
さて、明治末期の大日本帝国陸地測量部地形図を見てゆきましょう。
地図の中心付近には『屯田砲兵隊』の文字があり、現在の国道12号線『上川道路』と函館本線『歌志内線』もほぼ同一のルートを辿っていることが分かります。
上川道路にはそれぞれ4~9までの番号が付けられた『○号橋』がかかっていますね。
また、画像左側中央からまっすぐ右下に向かって伸びている道路は現在の国道275号線=『峰延道路』で、上川道路の開削に先立って、樺戸集治監の囚人が物資・人員の運送の為に明治19年に開削されたものです。
峰延道路には『空見橋』という記載がありますが、これは美唄を流れる川内川=カウシュナイを渡る為の橋で、現在も鉄筋ではありますが同じ位置に所在しています。
さて、時代は下って大正になりました。
連続にはなりますが、大正5年作成の地形図を見てゆきましょう。
地図中央やや上には『沼貝村』という記載があるほか、中央には『光珠内兵村』という記載があります。読みは同じ『コウシュナイ』ですが『高志内兵村』からいつ頃改められたものなのか、郷土史など手許の資料の範囲からでは判然としません。
余談ですが、『コウシュナイ』の語源も例によってアイヌ語由来です。『カー・ウシュ・ナイ』=『鹿などを捕獲する罠を仕掛ける沢』が由来と考えられています。前出の『川内川』は『カワナイ川』と読みますが、これも『カー・ナイ』が語源とされているそうです。画像の下部中央やや右側に記載がありますね。
川内川に関しては個人的にどちらかというと、カウシュナイからの転嫁でカウチュ川→カウチ川→川内川→カワナイ川という流れの方が自然に思えていますが、美唄市史で『カー・ナイ』が語源と言っているのでそれに従います。
ちなみに『峰延』の方はアイヌ語由来ではあるものの、音訳ではなく『タプ・コプ・ヌプ』=『峰のある荒野』の意訳で、音訳の方は画像中央下方にある『達布(タップ)』という山の名前に活かされているそうです。
この他、上部中央には明治の地形図には記載がなかった『美唄二十五年兵』の記載があります。
『空見橋』の左下には『伊藤農場』という記載がありますがこれは現在の美唄市域に含まれておらず、岩見沢市峰延町の範囲ですので説明は省略します。
なんと、『峰延』という町名は現在、美唄市峰延と岩見沢市峰延町の両方で利用されているのです。
似たような例として、北広島市と恵庭市における『島松』という地名がありますが、こちらは『西島松』『島松本町』『島松仲町』といった具合に、ある程度見分けがつきやすいのですが、峰延の場合には『町』の有無のみが相違であり、非常に紛らわしいものと言えるでしょう。
大正に入ると定住した屯田兵の人々による開拓が盛んとなり、峰延では産業組合なども組織されるようになりました。
さて、大正9年には岩見沢駅と滝川駅の間が単線から複線化工事が着工され、その兼ね合いで光珠内駅の前身となる光珠信号所が設置されます。
前述の通り、光珠内エリアには既に屯田兵の人々が入植しており、それなりの人口があったので、ここに駅が出来る事が期待されていたようです。
大正11年には名称が光珠信号場に改称されますが、大正13年には複線化工事が完了し、信号場が廃止されてしまいます。
前述の通り、光珠信号場の付近には勾配があり、駅設置の為には多額の工事費が発生する為に結局、駅が設置されたのは戦後になってからの事でした。
ちょうどこの頃、現在の南美唄エリアでは大正11年には日石光珠炭鉱が開坑、大正13年にそれよりも先行して開発されていた沼貝炭鉱を田中汽船鉱業株式会社から買い取って承継して、のちの南美唄駅周辺=三井美唄鉱山となる鉱山を形成してゆきます。
屯田兵の頃からの歴史もあり、軍と関係が深い美唄では、大正後期から昭和初期にかけても発展が続いていたようで、それまでは農村部であった峰延についても、街道沿いは相応の発展を遂げていたようです。
時代は更に下って昭和へ改元する頃には、南美唄・光珠内・峰延は軍事と石炭を主軸として発展してゆくことになるのです。
今回は美唄市南部にあたる南美唄・光珠内・峰延の明治から戦前までの歴史を紹介しましたが、昭和になってからのお話はまた次回以降ご紹介させて下さい。
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細井 全
【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇吉田初三郎『美唄市鳥観図』昭和27年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年
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