2019.10.18郷土誌から読み解く地域歴史情報
小樽市誕生の経緯2 ~小樽中心部の27の町の派生と統合~
前回『小樽市誕生の経緯1 ~3つの郡と2つの地域の合併の歴史~』では現在の小樽市が3つの郡(小樽郡、高島郡、忍路郡)と2つの地域(於古発、樽川村の一部)からなるものだと紹介しました。
その説明の中で、小樽郡の町々が小樽区となり、小樽市となって拡大してゆく経緯を紹介をしましたが、その詳細については、全体像の説明を優先させる為、割愛しましたので、今回はその辺りの事情を詳しく見てゆきましょう。
これは明治初期に北海道と樺太を巡回した金沢藩士、林 顕三氏によって明治7年に発行された『北海紀行』の附録の一つとして描かれた『後志国小樽港内之図』です。
函館、小樽、札幌を経由して樺太と往復をした記録ですが、かなりの長期行程ですし、執筆・出版までのスパンを考えれば、どの時点の小樽を描いたものであるのかははっきりと示されていません。
ただ、他の頁の記載から総合的に判断すると、明治5年頃の様子なのではないか、と判断しています。
この時点でかなり人家が密集しており、多くの船が停泊する栄えた港であったことが分かります。
開拓使が明治3年に置いた小樽郡には当初、信香町、信香裡町、山ノ上町、勝納町、金曇町、土場町、新地町、芝居町の8町が置かれました。
信香町は、江戸時代から栄えていたエリアで、オタルナイ場所の拠点としてオタルナイ運上屋が置かれていました。現在は埋め立てによって海岸線が前進していますが、勝納川の河口の北側で当時は海沿いのエリアでした。現在の南小樽駅の東側~南側で、分割によって完全にエリアが一致する訳ではありませんが現在も町名が残っています。後述する通り、信香町は最終的には10つの町名まで分割される広いエリアで、当初は概ね勝納川と於古発川に挟まれた広い一帯を指していたようです。
信香裡町は「のぶかうら」と読み、信香町よりやや海から離れて山側に所在します。
山ノ上町は信香町の北西に隣接し、現在は「山」というほどの高低差ではない為か、地名は残っていません。現在の南小樽駅正面、道道17号線沿いに所在していましたが、現在は住吉町や有幌町の一部となっています。
勝納町は、信香町から勝納川の河口を挟んで南側から川の上流まで含むかなり広いエリアで、最終的には小樽区になる直前では合計6つのエリアに分割されています。
金曇町は、信香町と勝納町の中間、勝納川の北岸に横丁のように細く所在するエリアです。
小樽市史では
『奥地には浮浪者、博徒、賤業婦等が多く入込んだが、小樽内に於ては當地が其の巣窟であつた』『彼等はこゝに於て種々の醜業悪事の魂胆をなすから「コンタン小路」と呼んだ』
(小樽市史新版第1巻より引用。太字は筆者による。)と、滅茶苦茶に書かれており、幕府の役人がそれを改めさせようと金曇町=「こんどんちょう」という文字を当てたものの、改められず、漢字表記はそのままに「こんたんちょう」と呼ばれるようになったと記されています。
もうほとんど明治のスラム街ですね、これは。
(ここで言う奥地というのはいわゆる『イナカ』というような意味です。)
明治4年に遊郭地に指定され、明治6~7年頃が娼館や酒場の全盛であったそうですが、明治14年に大火事があり、これが小樽の中心部が北上することになったきっかけの一つとも言われています。
土場町、新地町、芝居町は、慶応元年に山田兵蔵氏が勝納川から用水路を引き、下流の金曇町との間に用水路に沿った道を設けて両側を宅地としたもので、下流から遡って土場町、新地町、芝居町という順になります。
最も上流部分である芝居町には当時、『星川座』という劇場があったそうです。
土場町については明治14年に発生した大規模火災での被害が大きく、元々のエリアは金曇町に組み込まれてしまったとのことですが、はっきりとした消滅の時期が示されていない為、どう扱ったものか判断しかねます。
その翌年、明治4年には4つの町が生まれます。
多くの人が住まっていた信香町から有幌町、量徳町が、金曇町から高砂町が派生、そして信香町より更に北西の海岸が開拓使によって埋め立てられ港町が生まれます。
有幌町は信香町のうち最も海側だったエリアで、現在は埋め立てによって海沿いとは言えなくなっていますが、勝納川に沿って所在しています。
量徳町は現在の南小樽駅の南側、住吉神社の参道である住吉通の周辺から於古発川までを含み、当時その近辺に量徳寺があったことに由来するそうですが、その量徳寺は明治6年に現在の場所(入船町)に移転しています。まぁ、入船町自体が元々量徳町から分割された町なのですが。
高砂町もまた金曇町と同様に勝納川沿いのエリアで、金曇町より上流、芝居町より下流のエリアです。
港町はそれまでクッタルシと呼ばれていた信香町北西の海岸のエリアが埋め立てられ港町として設置されました。
余談ですがクッタルシとはアイヌ語で虎杖=イタドリの密集した場所という意味で、同様の地名は白老町にもあり、これが和訳されて白老町虎杖浜とされたそうです。
現在も港町という地名は残されていますが、戦後も続いた埋め立てによってかなり範囲が広がっています。現在、東側から小樽中央埠頭、小樽第一埠頭、小樽第二埠頭、小樽第三埠頭のすべての住所が『港町』ですが、明治4年当時の『港町』は中央埠頭の根元の部分にしか過ぎなかったのです。
更に明治5年には9つの町が生まれます。(書き回しが単調になって来ましたね。)
入船町は量徳町の西端部分から派生した町で、現在の南小樽駅の西側の一帯、現在『小樽オルゴール館』や『蒸気時計』のある『メルヘン交差点』から南下する入船通を登った一帯で、こちらは殆ど当時と同様のエリアで地名が残っています。
当時、小樽郡の端の端、於古発の手前だった入船町では、『貸座敷』業が許可された事で『貸座敷』業が盛んであり、かなりの賑わいを誇っていたという事です。
・・・『貸座敷』とは何か?というとこれは検索をすればすぐ分かる事ですから言ってしまいますと、娼館、女郎屋、連れ込み宿といったもので、敢えて現代の感覚で言うのであれば、明治のラブホテル街・ソープ街といったところでしょうか。
とはいえ、入船町には娼館しかなかった訳ではなく、その賑わいに応じて様々な小売商店も増えていったそうです。
前回紹介した通り、小樽の中心部は現在の南小樽駅周辺から現在の小樽駅周辺へと北上を続けて来ました。その北上に応じて入船町も反映していったのです。
永井町は量徳町と山ノ上町の間にあった畑が、信香町周辺の衰退にともなって人々の住まいや商圏が北側に移ってきたことで市街化されました。
永井町の周辺はこの後も人口が増加し続けたようで、のちに更に2つの町が生まれます。
また、同様に同年量徳町から開運町、信香裡町から若松町と竜徳町が分離しました。
竜徳町については当時そこに所在しており、のちに新富町に移転した竜徳寺にちなんで名付けられたということです。
ここまで通して明治5年のお話ですが、この年は前述の通り9つもの町が生まれた年です。
信香町や金曇町で抱えきれなくなった人口の受け皿として北側の於古発の方向、量徳寺町を中心に新しい市街地が生まれたようです。
では、北側ばかりが反映していったのか?・・・というとそうではなく、信香町から勝納川を挟んで南側、勝納町の人口も増加していたようで、この年一気に若竹町、潮見台町、新富町、真栄町の4町が派生しています。
若竹町は今回紹介するエリアの中で最も東南側にあり、小樽郡熊碓村=現在の小樽市桜(町)と接する広いエリアです。現在も地名は残っていますが、この頃の範囲には現在の小樽築港を含みます。
潮見台町については当時とほぼ同様の範囲で現在も地名が残っており、勝納川上流の毛無山(悲しい名前です。)の北側のふもとの一帯に所在します。
新富町は勝納町の南側に隣接して勝納川の上流に所在し、その更に南側の上流には真栄町が置かれ、こちらもほとんどそのままの形で地名が残っています。
話は翌年に移りますが明治7年には更に勝納町から川原町が派生します。
こちらは逆に勝納川の下流、河口付近にあった町で、船舶の往来の増加に伴って活気が増していたエリアという事ですが、明治12年に勝納川が氾濫した際に大きな被害があって衰退してしまったという事で、具体的な所在が記載された地図資料は見つけられていません。
同じく明治7年に芝居町から奥沢村が分割されます。
芝居町は前述の通り、勝納川から用水路を取った上流の集落ですが、行政上、その更に上流・山側も芝居町の範囲に含まれていたものが、人口の増加によって奥沢村として分離されたのです。
このように明治3年から明治7年の5年間に急ピッチで都市整備が進んゆきますが、ここから明治14年まで暫くの間は行政上の町名の増加はありませんでした。
これは、江戸時代から元々オタルナイ場所として繁栄していたものの、明治新政府の誕生によって、旧幕府陣営の没落士族や農家の次男・三男などが新しいフロンティアとして北海道に集まってきたという背景があったのでしょう。
特に港湾では商業の発展によって農業のように定住を要しない海運や陸運の仕事が生まれたほか、江戸時代から存在していたニシン漁への出稼ぎ=ヤン衆の仕事も人員が流動しやすくなった明治以降では更に盛んになってゆきました。
明治14年、前述した勝納川北側の金曇町、芝居町、高砂町、信香町などに大きな被害を生じた大規模火災の年に、再び大きな転機が訪れます。
大規模な火災によって消失した都市機能の代替として、開拓使などのほとんどの役所が量徳町周辺に移転し、量徳町の西側が住ノ江町として金雲町に代わる『貸座敷』の用地として分割され、住ノ江町は入船町と隣接する為、ラブホ街が広がったという訳です。
更に入船町からはかつて入船裏通と呼ばれていた場所が相生町として、永井町からは以前から原住民族であるアイヌ人が住まっていた場所をアイヌの居住地として定めた住初町が派生します。
このようにして、小樽郡北部への中心地の移動が進んでゆきました。
明治16年には永井町も人口の増加によって曙町が派生し、そこから『小樽区』が成立する明治32年までの16年もの間、小樽郡内での町名の変更はありませんでした。
一方で小樽郡の北西側である、於古発や手宮郡内の色内や手宮のエリアは明治14年以降、分割や村から町への昇格などが進んでゆきます。
【まとめ】
さて、非常に複雑な分裂と派生、そして統合を繰り返して現在に至る現在の小樽市ですが、その中でも過去にオタルナイ場所として呼ばれていた、現在の南小樽駅を中心としたエリアについては言葉だけで表しきれるものではありません。
前回と同様に最終的に27にも分裂した小樽の町々がどのような経緯を辿ったのか、表としてまとめた資料です。
本文でも触れましたが、裡町を含む信香町と勝納町について、人口の増加によって畑であった部分が人間の居住地域となったことがよく分かりますね。
のちに小樽区となった小樽郡8町がどのようにして27町になったのかを網羅的・概観的に示す資料は私の知る限り存在していません。
しかしながら、この表は郷土史の記載と数々の古地図の照合によって独自に作成したものですから、誤りがある可能性についてはあらかじめお詫び致します。
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細井 全
【参考文献】
◇林 顕三『北海紀行 付録』明治7年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第7巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇小樽市役所『小樽市史 第8巻 行政編(中)』(新版)平成6年
◇小樽市役所『小樽市史 第9巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
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