2020.08.11郷土誌から読み解く地域歴史情報

戦後、『花川』エリアが農村から石狩の中心となった経緯

さて、前回は現在の石狩市の人口の8割を占める中心地である花川エリアが戦前、極東農場による乳牛の生産地であったことや、軽石軌道という馬車鉄道がわずか14年で廃業してしまったことなどを紹介しました。
また、花畔村と樽川村の境界は現在も残る防風林であったことや、両村が合併し、花川エリアの名前の由来でもある花川村は行政区画としてはわずか5年しか存在していなかったことなども紹介しましたね。

石狩の住宅街

さて、おさらいとして前回掲載した戦前、昭和10年の内務省地理調査所地形図を見てみましょう。

昭和10年の花川エリア

注目すべきポイントとしてはやはり『極東農場』『軽石馬車軌道』の存在ですね。
こちらの地形図とこの次、戦後の昭和25年昭和28年に発行された地形図を組み合わせたものを見比べてみましょう。
発行年が若干異なりますので、継ぎ目部分に違和感がありますが、引きで見る分には問題ないでしょう。

昭和25年〜28年の花川エリア

昭和10年は『極東農場』であった場所が明治への商号変更によって『明治乳業札幌牧場』という記載になっています。
また、軽石馬車軌道の記載は消えており、明治以来のメインストリートである現在の道道44号線=南線は変わらず記載されています。

花川エリアは戦後もしばらくは変わらず酪農地帯であった訳ですが、畑作での収量不足や技術改善などもあって昭和23年から用水路が掘られ少しずつ水田の造成も進んでいたようです。
地形図の水田の地図記号も少し増えています。

樽川上空写真

戦後、北海道の各地には台湾や朝鮮半島、樺太といったいわゆる『外地』からの引揚者が多く戻りました。
それまでに未開拓であった土地が新たに開拓されることもあれば、それまで農地として利用されていた土地を宅地としたりといった方法で宅地が増加してゆきます。
札幌では昭和30年に琴似町、篠路村、札幌村が札幌市へ合併、昭和36年には定山渓を含む非常に広い町域を有していた豊平町を合併し、昭和42年の手稲町合併を経て概ね現在の市域となります。
札幌市を国防の要衝である北海道の中心として整備しようとした意図もあるでしょうが、宅地化の影響によって街と街との境目がなくなっていったことも要因です。
そのような背景の中で、札幌市内だけでは住宅の需要に追い付かないという事情があり、小樽市や広島町(現在の北広島市)でも宅地開発が進んでゆきました。
当時の石狩町は、石狩川の河口の漁業・水運を主産業とするエリアでしたが、内陸部の大字花畔村と大字樽川村は酪農を中心とした農村地域で、戦後しばらくの間は宅地化の兆しは見られませんでした。
当時の北海道では道庁や市町村、住宅供給公社などの主導で宅地開発がされる事が多かったのですが、石狩ではそういった動きが出てくるのは昭和45年以降になってからのことです。

 

昭和39年、樽川と花畔のいわゆる『南線地区』の農業経営者の有志が南線地区発展期成会を設立し、官からの主導ではなく民間の側からの宅地開発を目指してゆくことになります。
これには当時検討されていた減反政策への反発もあったそうですが、同年には早速、内外緑地株式会社との間で土地売買契約が成立します。
内外緑地株式会社は昭和35年釧路出身の松坂有祐氏が設立して急成長した開発事業者で、令和2年に閉鎖し解体が予定されるラフィラの当初の姿である『札幌松坂屋』にも関わっていたという話があります。

 

昭和40年9月には南線エリアの防風林周辺の宅地が新札幌団地と命名されて起工式が行われ、第一次分譲として20万坪が売り出されます。
設立してから4年の会社がこれだけのスピード感で大規模な造成を行なうというのは非常に異例なことですが、釧路にルーツを持つ内外緑地の松坂氏は釧路の資産家から支援を受けていたという噂もまことしやかに聞かれます。
分譲宅地だけでなく賃貸住宅59戸も供給されたそうです。

昭和30年代の花川エリア

こちらは、前掲の航空写真とおそらく同時期、昭和30年代後半の航空写真です。防風林の北西側の樽川エリアにわずかに宅地造成がされているほか、新札幌団地の南西端部分も若干開発されていることが分かります。

 

更に昭和41年、内外緑地は北海道内初の住宅金融公庫融資による土地付き建売住宅54戸の起工式を行います。
この時期は前述の通り、戦後の札幌の人口爆発によって、住宅不足が叫ばれ、札幌市内各地でも民間の宅地分譲が進んでいましたが、内外緑地は当時本州で流行していた住宅金融公庫での融資を石狩町でいち早く取り入れたのです。
ここからは、さらに勢いを増して次々と分譲宅地や建売住宅が売り出されてゆきます。

昭和40年代の分譲宅地

昭和41年には温泉も湧出し、昭和43年には内外緑地とは別に内外レジャーランド株式会社が設立します。
内外レジャーランドは主に新札幌団地でのリゾート開発を主たる事業としたもので、代表取締役社長は内外緑地と同じ松坂有祐氏、そして代表権のない会長として当時の前札幌市長、高田富与が就いています。
高田富与氏は戦後、選挙によって選ばれた最初の札幌市長ですが、12年3選後、国政に転じ衆議院議員議員として2期・・・といっても最初が補欠選挙の為、昭和39年まで5年ほどの任期を務めました。
現在の観点から言えばある意味、天下りといいますか、利権の匂いを感じる部分もなくはありませんが、当時の価値観から見れば仕方がないことであると考えます。
はっきり言ってしまえば、内外緑地は札幌市長経験者や住宅金融公庫といった公的な力を巧みに取り入れて事業を急拡大させていったということでしょうね。

レジャーコンビナート計画

これが内外レジャーランドの計画図です。壮大ですね。
9月には内外レジャーランドの地鎮祭を行い、翌昭和44年には内外レジャーランドが開業します。
綺麗に区画割が出来ず、地盤の問題もある札幌市の境界付近の茨戸川の周辺を有効活用しようという意図でしょうが、昭和44年から昭和46年にかけ冬季に雪で建物周りを囲う『雪の万里の長城』、大阪万博のパビリオンを移築した『万博スカンジナビア館』、ボウリング場の『ボウルニューサッポロ』など破竹の勢いで開発を進める内外緑地でありましたが、すべてが順調という訳ではありません。
当初、新札幌団地では飲用水に地下水を利用していましたが、赤水などが発生して北海道議会でも問題として取り上げられ、別途、同時期に上水道が新設されることになります。

新札幌団地浄水場

当時は法規制が緩く、乱開発も問題となりましたし、各地の造成宅地では上水道の問題、道路舗装の問題、所有権などの権利の問題、除雪の問題など様々な問題が発生していました。

 

また、昭和45年、内外緑地に遅れる形で北海道庁の主導で北海道住宅供給公社によって新札幌団地の北東側に花畔団地の開発が計画されます。
昭和46年には北海道住宅供給公社と地権者44人との間で、211haの売買契約が締結され、併せて祝賀会も開催されました。
同年には石狩町、北海道住宅供給公社、内外緑地株式会社、石狩開発株式会社の4社によって石狩地域開発連絡協議会が発足します。

 

昭和48年には法律上優先的に整備される『都市計画道路』として『石狩手稲通』『花川通』『樽川通』の3つが計画決定されます。(このうち『樽川通』は同じ名称の道路が手稲区にあるからか、わずか一か月で『西5丁目樽川通』と改称されます。)

昭和49年〜53年の花川エリア

こちらは昭和49年昭和53年頃の航空写真です。
道路の本数が増え、新札幌団地花畔団地の区画割りが一気に進んだことが分かりますね。
新札幌団地は一足早く造成されたからか、住宅もかなりの密度で建設が進んでいますが、花畔団地については区割りは殆ど終わっているものの、住宅の建築についてはまだまだこれから、という様子ですね。

 

昭和49年には内外緑地株式会社ユー・アンド・アイ・マツザカへ商号を変更します。
『マツザカ』は創業者松坂有祐氏の姓なのでしょうが、ユー・アンド・アイは、単純に『あなたと私』なのか、有祐氏のイニシャルの『ユー』のパートナーとして『アイ』のイニシャルの方がいるのか、というのは分かりかねます。
昭和50年には、新札幌団地の開発から10周年を迎え、新札幌団地連合町内会と株式会社ユー・アンド・アイ・マツザカの共催で開基十周年記念式典と祝賀会が開催されます。

 

しかし、その翌年、昭和51年に株式会社ユー・アンド・アイ・マツザカは手形の不渡りを出し、銀行取引停止処分・・・つまりは事実上の倒産をしてしまいます。
ものの本ではオイルショックの影響と解説されていますが、おそらくはそれだけが原因という訳ではないでしょう。行き過ぎた投資と借入超過が倒産を招くのは、どの時代でも同じことです。
これに伴い、ユー・アンド・アイ・マツザカが担っていた除雪や街灯管理などの業務をどのようにするか、連合町内会との間で話し合いが持たれ、のちには町内会と石狩町が管理を引き継ぐこととなったそうです。
昭和51年12月、それまで『新札幌団地』『花畔団地』内の住所は『石狩町大字樽川村○○○番地』『石狩町大字花畔○○○番地』であったものが、町名変更によって花川南○条○丁目花川北○条○丁目に改められます。
住宅地の広がりによって番地だけでは住所が煩雑で管理がしきれなくなったという行政面での事情は勿論あるでしょうが、町名変更は住民からの陳情によるものということですから『ニュータウンを買ったのに住所が”村”じゃあ・・・』という住民感情も背景にあったのかもしれません。(これは以前も言及しましたね。)

 

その後、ユー・アンド・アイ・マツザカは更生会社となり、保有していた土地の整理処分が進められます。
昭和53年8月、開発中の新札幌団地第6工区、498区画34,409㎡の造成工事を完了した上で太平洋興発株式会社へ売却します。
昭和53年、太平洋興発株式会社は『あかしやタウン紅葉山』というブランド名で住宅金融公庫の融資付き分譲住宅として売り出します。
また、新札幌団地とは別に同昭和53年には花畔団地の更に北東側に花畔土地区画整理事業の計画が始まり、この調査の着手によって、ついに花川エリアが茨戸川まで到達することとなりました。
昭和56年『藤女子大学』を運営する学校法人『藤学園』がユー・アンド・アイ・マツザカとの間で土地の売買契約を締結し、藤女子大学の石狩町への一部移転が決まります。

昭和56年の花川エリア

こちらは昭和59年昭和62年の航空写真、新札幌団地は殆どが埋まり、花畔団地についてもほぼ埋まっているのが分かりますね。
『花畔土地区画整理事業』はまだ計画が開始したばかりで、緑色の部分が多くなっています。

昭和60年代の花畔

昭和61年、札幌市北区屯田と花川の間に紅葉橋が開通し、札幌市との間のアクセスが更に改善します。
昭和63年には『花畔土地区画整理事業』の計画の認可が取得され、改元後の平成元年からは次々と工事や換地といった区画整理事業が進んでゆきます。
平成4年には前述の内外レジャーランドの跡地:花川南4条5丁目藤女子短期大学花川キャンパスが開校します。

平成の花畔
『花畔土地区画整理事業』はその後も順調に進み、平成5年には石狩町役場親船町から現在地:花川北6条1丁目に移転します。
そして平成8年8月1日、石狩町には市制が施行され、石狩市が誕生します。
その後、平成11年には『花畔土地区画整理事業』が完了し、花川エリアは概ね現在の姿にまで発展します。

平成19年の花川エリア

こちらは平成19年以降の航空写真ですが、札幌市のベッドタウンとして現在の形をとっています。
花川エリアの開発後、ニュータウン開発は緑苑台エリアへと移ってゆき、分譲は現在も続いています。
また、『南線地区』の北側は前回紹介した通り、まだ市街化されていないエリアがあり、緑苑台についてもその西側については、まだ市街化されていませんから、将来、花川エリアの広がりに応じて市街地が広がるということもあるかもしれませんね。

 

当記事は石狩エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
石狩エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・余市・手稲・⽯狩の各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇石価値市郷土研究会『いしかり暦 第23号』平成22年より
田中 實『花川南地域開発概説年表』
◇花川南連合町内会『流歴 花川南連合町内会』平成14年
◇石狩市花畔市街土地区画整理組合『石狩市花畔市街土地整理事業完成記念誌』平成12年
◇樽川地主会『樽川百年史』昭和52年
◇花畔開村百年記念行事協賛会『花畔の百年』出版年不詳
◇明治製菓『明治製菓株式会社二十年史 : 創立二十周年記念』昭和11年
◇明治乳業『明治乳業50年史』昭和44年
◇石狩町『石狩町史 上巻』昭和47年
◇石狩町『石狩町史 中巻一』昭和60年
◇石狩町『石狩町史 中巻二』平成3年
◇石狩市『石狩町史 下巻』平成9年
◇石狩市『石狩市年表:石狩市史/資料編1』平成15年
◇石狩市『石狩ファイル』各号
◇石狩市公式サイト 移住をお考えの方へ
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/kikaku/796.html
◇石狩市公式サイト 石狩市の人口 http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/uploaded/attachment/31968.pdf

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戦後、『花川』エリアが農村から石狩の中心となった経緯

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