2020.08.03郷土誌から読み解く地域歴史情報

石狩市の中心『花川』エリアが戦前『花畔』と『樽川』だった頃

さて、この記事をご覧頂いている皆さんは概ね北海道民であると考えていますが、そんな皆さんにとって『石狩市』のイメージとはどんなものでしょうか。

石狩市の住宅街

石狩市民の皆さんに対しては少し失礼かもしれませんが、客観的に『札幌のベッドタウン』というイメージがあるのではないか、と考えています。
石狩市のイメージについて、残念ながら客観的な根拠資料はありませんが、石狩市の公式サイト内の移住者向けコンテンツに『札幌市のベッドタウンとして宅地化が進み』(『石狩市公式サイト 移住をお考えの方へ』より引用)と記載されていますから、ベッドタウンというのは石狩市の公式的見解であることを申し添えます。
まぁ、別にベッドタウンという言葉に悪い意味がある訳ではありません。
いわゆる『閑静な住宅街』というやつで、中心街ではないものの比較的手ごろな地価や賃料で暮らしやすい環境が得られることがベッドタウンの条件ですから、そういった意味では石狩市は良好な住宅街が形成されているエリアであるということが出来るでしょう。

しかしながら、そんなイメージに反して、石狩市は意外と広い。

旧石狩町・浜益区・厚田区

そのあたりの事情は過去の記事『石狩市の成り立ちと歴史 ~29の町村が1郡1町村に統合されるまで~』と『石狩市の成り立ちと歴史 ~石狩市は大正・戦後を経てどのように現代に至ったのか?~』で詳しく解説をしましたが、ざっくり言いますと、平成17年に石狩市・厚田村・浜益村が合併し、現在の市域になったことで、現在の石狩市域72.165haのうち石狩:厚田:浜益の面積割合は16.3%:40.6%:43.1%と、いわゆる旧:石狩市のエリアは現在の市域のうち6分の1程度な訳ですね。

 

更に、いわゆるベッドタウンとしての石狩市の役割を考えてゆくにあたって、地域別の居住人口も見てゆきましょう。
石狩市の公式サイトに掲載の令和2年1月末日時点での統計によると、『花川』『花川東』『花川北』『花川南』『花畔』『樽川』の6地区・・・いわゆる花川エリアの人口は、厚田区・浜益区を含む現在の石狩市域では人口58,295人のうち『花川エリア』の人口は48,472人・・・なんと83.14%もの人口がこのエリアに集中しています。
このうち『花川』『花川東』『花畔』『樽川』の大部分は計画的な開発がされていない地区であり、『花畔』と『樽川』の一部を除いては条丁目が付されていません。
その為、花川エリアの中でも特に『花川南』『花川北』については人口38,755人と66.48%を占めています。

 

改めて数値データとして捉えたときに、この石狩市の市域に対しての人口密集率については本当に驚きました。
ちなみに同時期の札幌市の住民基本台帳に基づく資料によると、市域全体に占める中央区の人口割合は12.16%、更に中央区に郊外も含む北区・東区(郊外を含む)の3区の人口割合は40.13%。
札幌市の場合には、市域の半分が南区の国有林ですが、とはいえ、人口がよく分散しているようですね。・・・いや、まぁ、10区のうち3区の合計で人口の4割を占めるというのも偏重と言えば偏重なのですが・・・

 

さて、石狩市において、花川エリアが人口の8割を占める非常に重要なエリアであることは、お分かり頂けたでしょうか。

この『花川エリア』が、現在の石狩市の中心を担っていますが、このエリアはどのように形成されていったのでしょうか。
花川エリアは、大枠によって主に3つの宅地造成から成り立っています。

花川エリアの航空写真

南西に所在し、最も広い面積を占める札幌市の北区・手稲区と隣接する『新札幌団地』で、概ね現在の『花川南』にあたります。
中央に所在し、札幌市北区や花川東と隣接する『花畔団地』
北側の茨戸川との間のエリアで創成川通り≒国道231から接続する『花畔父区画整理事業』で、花畔団地と併せて概ね現在の『花川北』にあたります。
この3つのエリアが、現在の石狩市の人口の8割を占める『花川エリア』の大部分ですが、今回はこのエリアの歴史経緯について紹介してゆきましょう。

 

・・・明治初期は石狩は勿論、札幌においても区域のほとんどが未開地であった訳ですが、特に『石狩』の中心地は江戸期から北海道の漁業・水運の拠点であった石狩川河口のエリアであり、内陸の低地である花川エリアは当時生産に適した作物もなく、現在の石狩の中心地としての姿とは大きくかけ離れた姿であったと言えるでしょう。

 

明治4年、当時の石狩の中心部である河口以外の石狩川左岸に花畔村が開村し、明治15年には山口村(現在の札幌市手稲区手稲山口)の東側、花畔の西側に樽川村が開村します。

明治初期の石狩エリア

明治30年には札幌農学校2期生の町村金弥氏らが国有地であった当該地の払い下げを受けたものの、花川エリアの土壌は砂地や泥炭地が多く、稲作は勿論、畑作にも適さない土地だったようで、作物は育ちませんでした。
明治35年には両村が合併して花畔樽川から一文字ずつを取って花川村が誕生しますが、そのわずか5年後、明治40年には石狩町と合併して上の地図のエリアすべてが石狩町の町域となります。
花川村は5年しか存在しなかった行政区画ですが、現在の石狩市の中心エリアとして名前が残っているというのは興味深いことですね。

 

同時期の明治41年町村金弥氏が所有していた土地を札幌農学校11期生でかつて存在した北海道初のデパート『五番舘』の前身である札幌興農園の創業者である小川二郎氏が牧草栽培の為に借り受けます。

栽培した牧草を牛に与え、牛糞を肥料とすることが主目的であったようですが、牛乳を販売したり、仔牛を売却することで得られる現金収入も魅力であったようです。

 

それでは明治29年測量・明治42年修正の大日本帝国陸地測量部の地形図を見てみましょう。

明治42年花川エリア

地形図は明治42年修正版なのですが、地名は花畔村、樽川村の表記のままとなっていますね。
画像中央やや左側の点線は、両村の境界線を示すものです。
現在の新札幌団地と花畔団地の北側には『南線』道道44号線『石狩手稲線』が既に開削されていますね。
『南線』は現在も小学校名などに残る地名で古くは『なんせん』と呼ばれたそうですが、現在正式には『みなみせん』と読みます。

44号線・南線地区

写真の中央を奥に向かって走っているのが道道44号線=『南線』で右側がいわゆる花川エリアの住宅街である南線地区です。
左右に渡って樹木がありますが、これは強風から農作物を守り、吹雪などを防ぐ目的を持つ防風林です。
この防風林は明治26年に開拓民によって伐り残されたもので、その後も住民の皆さんによって保護され、現在は国有保安林となっています。
防風林の向かって手前、写真左下が樽川(番地地区)、防風林の奥、写真左上が花畔(番地地区)です。
これは明治時代からの名残で、樽川村と花畔村の境界は防風林であったという訳ですね。
前述の通り、樽川や花畔の地名のエリアでも条丁目が設定されているエリアはありますが番地地区については、土地区画整理事業などは行われておらず、都市計画法によって原則的に建物の建築が制限される市街化調整区域に指定されていますから、その多くが畑や作業場として利用されています。

 

明治以来、戦前までの花川エリアは農村地帯であって、一部で水田耕作なども行われたようですが、立地的な不便もあり、さほど人口は増えなかったようです。
現在の札幌市域についても同様で戦前までは各集落が点々と所在しており、現在のような連なった市街地となるのは戦後の人口増と都市化に伴うものです。
昭和10年版の内務省地理調査所の地形図を見てみましょう。

昭和10年の花川エリア

南線の部分に『軽石馬車軌道』という記載があります。
『軽石』は音読みで「けいせき」とも呼ばれていたそうですが、昭和の人がカカトの角質を削り落とす為に使っていた軽石ではなく(最近見ませんよね。)、現在の手稲駅の旧称『軽川』=るがわと石狩を結んだので『がるいし』馬車軌道という訳です。

しつこいですが、この場合の『石狩』も現在イメージされる石狩市街≒花川エリアではなく、当時の石狩町役場があった石狩川の河口エリアを指します。
大正11年に認可を受けた際には石狩川畔停車場という名称で石狩川河口にも駅が設けられる予定でしたが、実際には花畔停車場として現在の石狩市役所付近までしか開業せずに終わりました。
許可と同年の大正11年には軽川停車場と花畔停車場の間にレールが敷設されて開業し、乗客のほかに生活物資や農作物を運搬していたそうです。
終点の花畔停車場の近くには茨戸川があり、水運とも連携していたようですから、そういった意味でも石狩本町付近まで延伸する必要性は薄かったのかもしれません。
また、技術的な問題もあり、夏の間だけの営業で冬期は休業していたという事です。
この鉄道、大正当時の段階で既に時代遅れとなっていた馬車鉄道であり、当時人口の少ない軽川村と石狩町を結んでいた訳ですが、なんと昭和10年にはわずか14年で廃業をしてしまいます。
つまり、この地形図の発行年が営業最終年だったということです。

 

地形図中央やや左側には『極東農場』と記載されています。
大正6年に東京の京橋を本社に設立した「極東練乳株式会社」という法人が運営していた農場で、小川二郎氏からこの一帯を譲り受けてホルスタインを北米から輸入して、牛乳や仔牛の大規模生産を行ないました。
(町村氏から小川氏が借りていた土地をいつ譲り受けたかについては、記述が見当たらず、判明していません。)
この会社の初代社長は三井物産出身の馬越恭平氏で、複数社の合併によって当時のビール業界を席捲していた大日本麦酒株式会社の社長でもあります。
大日本麦酒以外でも各地で鉄道を始めとした産業に携わっており、極東練乳はその事業の中の一つということでしょう。
明治乳業の社史によると、極東練乳は明治、森永と並ぶ三大乳業会社であったとの事ですが、昭和8年馬越恭平氏が急死、世は世界恐慌の影響下にある中で業績は悪化し、昭和10年に明治製菓の資本を受け入れて子会社化することとなります。

 

明治乳業の親会社である明治製菓の社史によると、昭和11年時点で極東農場の本部は手稲村大字下手稲にあり、第1農場が軽川(現在の手稲駅周辺)、第2農場が石狩町大字樽川村、第3農場が石狩町大字花畔村にあったとされています。

 

その後、昭和15年には極東練乳株式会社の商号が明治乳業株式会社へと変更され、明治製菓の乳業部門も徐々に引き受け、昭和18年には明治乳業がグループ全体の乳業部門を取り仕切ることとなりました。

 

こうして見ると軽石軌道と極東練乳という花川エリアに関連する2つの企業が大きな変革を迎えた昭和10年前後というのは花川エリアにとって大きな変動期にあった時代であったという事が分かりますね。

 

さて、次回は酪農の村であった花畔村と樽川村は、アジア太平洋戦争後、どのような経緯を経て現在のような石狩市の中心となる住宅街:花川エリアを形成してゆくか、その経緯を紹介してゆく予定です。

 

当記事は石狩エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
石狩エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・余市・手稲・⽯狩の各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇石価値市郷土研究会『いしかり暦 第23号』平成22年より
田中 實『花川南地域開発概説年表』
◇花川南連合町内会『流歴 花川南連合町内会』平成14年
◇石狩市花畔市街土地区画整理組合『石狩市花畔市街土地整理事業完成記念誌』平成12年
◇樽川地主会『樽川百年史』昭和52年
◇花畔開村百年記念行事協賛会『花畔の百年』出版年不詳
◇明治製菓『明治製菓株式会社二十年史 : 創立二十周年記念』昭和11年
◇明治乳業『明治乳業50年史』昭和44年
◇石狩町『石狩町史 上巻』昭和47年
◇石狩町『石狩町史 中巻一』昭和60年
◇石狩町『石狩町史 中巻二』平成3年
◇石狩市『石狩町史 下巻』平成9年
◇石狩市『石狩市年表:石狩市史/資料編1』平成15年
◇石狩市『石狩ファイル』各号
◇石狩市公式サイト 移住をお考えの方へ
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/kikaku/796.html
◇石狩市公式サイト 石狩市の人口
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/uploaded/attachment/31968.pdf

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