2022.09.02郷土誌から読み解く地域歴史情報
かつて札幌圏に牛乳を供給していた『樽川』の戦前戦後の隆盛
さて、前回は町村農場や極東農場といった存在によって、明治~大正の樽川エリアが乳牛育成を主体とした酪農地帯となったことを紹介しました。
今回は元号が昭和に代わってからの樽川エリアの様子を紹介してゆきましょう。
大正から昭和初期にかけては戦争やら政争やら関東大震災やらで諸々ゴタゴタとしていた訳ですが、昭和9年には樽川村開村50周年を迎え、樽川神社に大鳥居と開村五十年記念の石碑が建立されます。
樽川神社は石狩湾新港の開発に伴って若干移動していますが、現在の樽川神社の境内にも鳥居や石碑は未だ残されています。
樽川神社は移転後の現在、樽川3条と4条の間の道路が参道となっており、市街化調整区域に所在しています。
時代は前後しますが、樽川神社は明治20年に設置された祠を起源とし、明治39年に創立された神社ですが、前回紹介の大正7年の地形図には当時の社殿の位置に鳥居のマークの神社の地図記号は記されていません。
これまでにいくつもの地域の歴史を紹介して来ましたが、大正の地形図には神社または仏閣の地図記号がほとんどの場合記載されていましたから、当時の樽川神社はかなり小規模な神社であったと言えるでしょうし、それはこのエリアの人口密度がまだまだ低かったことによるのかもしれません。
昭和15年には境内に二宮金次郎像が設置されていますが、北海道では比較的、二宮金次郎像を見かける機会少ないのですが、その上で、小学校などではなく、神社に設置される例は道内では比較的少ないと言えるでしょう。
この二宮金次郎像は現在も樽川神社の境内に祀られています。
そんなこんなで、明治の開拓から戦前までの現在の樽川エリアにあたる樽川村の南東部は札幌に牛乳を供給する酪農地帯としての役割を担って来た訳ですが、その役割もあってか、工業地帯としての江別や重要港湾であった小樽などと比較すると第二次世界大戦≒アジア太平洋戦争≒大東亜戦争による被害も少なく、終戦を迎えることになりました。
ここからは明治から戦前にかけ、畑作にも稲作にも適さない砂地を活かす方策として酪農を主産業としてきた樽川エリアについて、戦後の経緯を紹介してゆきましょう。
戦後、昭和28年発行の内務省地理調査所の地形図を見てみましょう。
現在の樽川エリアにはほとんど人家はなく、牧草地が広がっています。
大正まであった極東農場は昭和10年に明治製菓グループの傘下に入り、昭和15年には明治乳業株式会社と改称し、樽川の牧場も『明治乳業札幌牧場』と名前を変えました。
次に昭和30年代後半の航空写真を見てみましょう。
現在の『樽川』エリアについては、この当時、そのほぼすべてが農地であって、人家が密集している様子や区画整理が入っている様子はありませんが、その南東側に所在する花川南エリアでは、3~4条のエリアと8~9条のエリアに道路が敷かれ、まだ小規模ながら宅地開発が始まっていることが伺えます。
ただ、現在の花川南エリアも石狩町字樽川村の一部であったという前後関係だけは忘れてはなりません。
前回、樽川ではのちに明治乳業となる極東農場という大農場によって乳業が営まれていたことを紹介しましたが、この周辺ではそれ以外の農家もそれに倣って乳業を営んでおり、生産された生乳を集める為の集乳所が設置されていました。写真は昭和14年に地元の有志の働きかけにより北海道興農公社、のちの雪印乳業:現在の北海道メグミルクによって設置された樽川集乳所です。これが設立されるまでは札幌酪農信用購買生産組合:現在のサツラクが設置していた花畔集乳所に納品していましたが、昭和初期から生乳の需要が増加して地元の集乳所のニーズが高まったことによって設置されたものです。
こちらは昭和24年、戦後の写真ですが、馬そりを利用して牛乳を運んでいる様子が分かりますね。
馬そりは明治初期にロシアに倣って導入され、技術改良を経て中期から普及し始めたもので、日本においては北海道独特の物と言う事が出来るでしょう。そりを引く馬、いわゆる『道産子(どさんこ)』は元々、江戸期から東北地方、現在の青森の南部馬を元に繁殖していたもので、明治以降にアメリカやフランスの品種との交配で大型化が目指されることもあったものの、基本的には在来種という扱いになっています。
北海道の馬といえば、ばんえい競馬の立派な体格から、海外から導入した馬が道産子、というイメージもあるかもしれませんが、ばんえい競馬に出走する『ばん馬』は、主にフランスから導入された品種の純血種か雑種で、道内出身者でもご存知でない方が多いのですが『道産子』と『ばん馬』は違うものなんですね。
前掲の樽川集乳所の写真に写っている馬は一緒に移っている人との対比や体格を見るに、恐らくは道産子か、道産子と海外品種の交配種なのではないかと思われます。
こちらの写真は同じ樽川集乳所を遠目に写した昭和26年の写真ですが、キャプションにある通り、集乳所住宅という職員用社宅や農協の倉庫など、関係する建物がある程度密集して農地(牧草地・水田)の中にポツンとあったようです。
人が暮らす為にはまず飲み水が必要ですし、その他の生活資源も共有していた方が有利ですから、開拓時には川の付近に人家が密集したり、道路と用水を引いてそれに沿って人家を配置したり、そのどちらでもない場合には井戸を掘って主要な建物をある一ヶ所に密集させたりといった方法で合理化させるのが一般的です。
こちらは昭和35年に撮影の道道:石狩手稲線・・・いわゆる南線の機械除雪の様子です。現在も見かけるような牙付きの円盤=オーガが回転して雪を巻き上げて噴出させるロータリー式除雪車ですね。当時としては最新鋭の機材です。
ロータリー式除雪車が登場する前の除雪というのは、雪を掻き分け・押し固めるスノープラウが根本的な仕組みとなっており、そこに雪を持ち上げる性能を付加したものとしてショベル車やブルドーザー、クレーン車などがあります。
スノープラウは元々、馬に曳かせて畑を耕す道具であるプラウを雪を掻き分ける為に利用したものです。
写真を見る限り2m前後の積雪ですから雪を掻き分ける訳にもゆきません。特に石狩エリアの中心的な道路である南線ではロータリー式除雪車が優先的に導入されたのではないかと思われます。
昭和30年代後半からは原油の輸入原則自由化によってガソリンへのエネルギー革命が進み、それと前後して自動車の普及・モータリゼーションが進行します。
昭和35年に撮影の写真では樽川コールドステーションと生乳運搬用のタンクローリーが写されていますが、このコールドステーションは前述の樽川集乳所とは別の施設で、札幌酪農業協同組合:現在の“サツラク”によって設置された集乳所です。サツラクと雪印の生乳争奪戦なんていう事もあったのかもしれませんね。
こちらは昭和37年の写真ですが、トラクターが導入されていますね。
明治乳業の傘下となってからも、やはり地元の方にはなじみが深かったのか、極東農場の名前を残して『極東第2地区パイロット事業』として開墾が進みます。
一方で、昭和40年代は高度経済成長の真っ只中、そして昭和47年には札幌オリンピックを控え、純粋な酪農地帯であった樽川エリアは、都市化の波に晒される事になります。
そんな激動の昭和後期、樽川エリアはどのような変貌を遂げてゆくのでしょうか。
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細井 全
【参考文献】
◇石狩市教育委員会『石狩市21世紀に伝える写真集』平成14年
◇樽川地主会『樽川百年史』昭和52年
◇財団法人北海道開発協会『石狩湾新港史』平成3年
◇樽川発祥之地記念編集委員会『たるかわの歩み』昭和61年
◇小樽港湾建設事務所『石狩湾新港建設のあゆみ 第1船入港まで』昭和62年
◇小樽港湾建設事務所『写真集 小樽築港100年のあゆみ』平成9年
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇花川南連合町内会『流歴 花川南連合町内会』平成14年
◇石狩市花畔市街土地区画整理組合『石狩市花畔市街土地整理事業完成記念誌』平成12年
◇花畔開村百年記念行事協賛会『花畔の百年』出版年不詳
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇明治製菓『明治製菓株式会社二十年史 : 創立二十周年記念』昭和11年
◇明治乳業『明治乳業50年史』昭和44年
◇石狩町『石狩町史 上巻』昭和47年
◇石狩町『石狩町史 中巻一』昭和60年
◇石狩町『石狩町史 中巻二』平成3年
◇石狩市『石狩町史 下巻』平成9年
◇石狩市『石狩市年表:石狩市史/資料編1』平成15年
◇石狩市『石狩ファイル』各号
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