2021.02.22郷土誌から読み解く地域歴史情報

のちに-朝里・新光-となる朝里村の明治と大正

さて、前回は朝里エリアとは何かという定義付けを行ない、旧:朝里村の村域であって現在は『朝里』『新光』『新光町』『朝里川温泉』の4つの町名が設定されていることを説明しました。

今回はこのうち朝里川下流の住宅街となっている『朝里』『新光』を中心とした歴史について紹介してゆきましょう。

朝里エリアと海

アサリ村は江戸期からニシン漁場として存在していましたが、明治維新後の明治3年に小樽郡に属する村として熊碓村、銭函村、張碓村とともに朝里村が置かれます。
明治初期、後志地方でニシン漁は非常に栄えていたことはよく知られていますが、朝里村もその例に漏れず、明治9年には現在の朝里小学校の前身である朝里教育所が開校し、翌明治10年には小樽量徳学校朝里分校と改称されました。

明治13年には官営幌内鉄道が開業し、朝里駅が設置されます。当初は旅客だけの取扱いだったそうですが翌明治14年には貨物の取扱いも開始されます。
空知からの石炭を小樽から搬出する為に開業した官営幌内鉄道ですが、他の記事で既に紹介している通り、その運営にはコスト的な問題がのしかかり、明治21年には北有社へ運営を移管、その後明治22年には北海道炭礦鉄道に更に移管され、明治39年に国有化されるまでの間は北海道炭礦鉄道が運営を担うことになります。
国有化されてもコスト的な面では苦難は続きますが、それでも富国強兵・殖産興業の国策によって、函館と札幌とを結ぶ国鉄函館本線への設備投資は継続され、明治44年には線路が増設されて複線化します。

 

それでは数少ない資料のうち、明治29年測量、明治45年修正の大日本帝国陸地測量部作成による地形図を見てみましょう。
上部3分の2は『小樽』、下部3分の1は『銭函』を合成した画像で、つながりに違和感があると思われます。いずれも5万分の1の縮尺なのですが、山間部は太線でのラフな記載となってしまっています。

明治の小樽・銭函の地形図

海沿いに国鉄の線路と朝里駅があり、朝里駅の北西側に学校の地図記号『』があります。これは先に紹介した現在の朝里小学校で、この頃の名称は朝里尋常小学校でした。
道道1号線と同様のメインストリートの坂道が既に走っていますが、少し坂を上ったところにもう一つ『』がありますね。最初、これは中学校なのかな?と思ったのですが朝里に中学校が出来たのは昭和22年の事で、まだまだ先の話です。
実は朝里尋常小学校は坂の少し上に明治42年に移転されているんですね、この時期は両方の建物が併存していたのかもしれません。

 

地図の中心には『朝里山ノ上』と記載されていますが、この辺りは現在『新光』となっているエリアです。山ノ上=新光という訳ではなく、山ノ上という地名はさらに南側の朝里川温泉も含んでいます。
『山の上』という地名この周辺ではありふれていたようで、他にも張碓や銭函の地図にも同様の地名が見えます。
やはりこの頃は産業の中心が漁業であったようで、人家は海沿いに多く所在しており、メインストリートの人家は少しまばらで、主に農業をしていたようですが、地図を見る限りでは、小規模な営農であったようです。

 

朝里駅の右側・東側には『柾里』という記載があります。
『柾里』はマサリと読み、朝里川の少し東側に新光と朝里のともに3丁目と4丁目を隔てる柾里川があります。
柾里というのはこの柾里川から取った地名で、現在の新光朝里4丁目に柾里神社、新光3丁目に中央バスの柾里停留所があるほか、国道5号線の信号の名称として柾里という記載が残っています。
国道にある信号に『柾里』という記載があるものですから、行政上の町名にも柾里という地名があると思っていたこともありますが、実は既に行政上は存在しない町名なんですね。

 

反対側の左側・西側には『荒濱』と記載されていますが、これはアラハマと読むのかアラバマと読むのかも含めて、『荒濱』について言及した資料や記録を見付けることは出来ませんでした。

 

明治期については、あらかた紹介をしましたので次は大日本帝国陸地測量部による大正7年『小樽東部』大正5年『石倉山』を合成したものです。

大正の小樽東部と石倉山

『朝里村』『柾里』『荒濱』などの記載は明治のものと同様ですが『朝里山ノ上』が単に『山ノ上』という表記になっています。
小学校は新しい校舎(とはいっても、のちに再度移転し現在地とは異なります)のみの記載となり、先に紹介した柾里神社の他に、現在も続く朝里神社も地図記号として記載されています。

柾里神社は江戸時代から何度も建て替えられているようでその詳細は不明ですが、朝里神社の方は、天保5年に創立、明治8年に村社とされたもので、移転される前は朝里尋常小学校の新旧校舎の間に所在していたことが前掲の明治期の地形図に記載されていますが、これが大正4年に現在の位置に移転されていることが地形図にも示されています。
どちらも保食神を祀る稲荷神社であり、漁業の繫栄を願ったもののようです。

 

地図が鮮明となったこともありますが、道路が整備されている状況も分かりますね。
のちに道道1号線となるメインストリートは明治の地形図では途中で途切れていますが、大正の地形図では南方向へ大きく延びていることが分かります。これは大正11年から朝里川の上流の『ガッカリ澤』で水源地の整備がはじまったことも無関係ではないでしょう。
また、東西にはそれよりも更に太い道路が『軍事道路』として記載されています。
『軍事道路』明治37年に勃発した日露戦争の影響で小樽と札幌の交通を整備して国防を充実させる目的明治38年に開削されたもので、のちに大正9年旧:国道4号線に編入されました。

小樽札幌間の軍事道路

小樽と札幌を結ぶという意味では現在の国道5号線と同じ役割の道路ですが、その経路はかなり異なっています。
と、言うのも『軍事道路』は現在よりも山側に開削され、急勾配を縫っていた為に、馬車や自動車が通ることは困難であり、ほとんど利用されることがなくなってしまったという事情があるのです。

大正までは依然として人や物資の移動の中心的役割は鉄道が担っていたようです。

朝里浜の鰊漁

朝里は依然として小規模な漁村であって、ニシン漁が盛んであったようです。

大正15年の小樽街道網案内図

こちらは大正15年発行の『小樽市街路網案図』です。国鉄函館本線と軍事道路が描かれている一方で、現在の道道1号線は軍事道路との交差点で止まっており、地形図に描かれていた更に南側の朝里水源地への道など、少し記載が異なっています。
街路網の案ということで、大きな道路しか記載しなかったのかもしれませんが、標高差や崖の状況など、違う形での見方が出来ますね。

 

さて、今回はニシン漁村である小樽郡朝里村の明治と大正について紹介しました。次回以降で昭和、平成の朝里についてもご紹介してゆきましょう。

 

当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
⼩樽・後志エリアの不動産に関するご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇有限会社北海道新聞中販売所『小樽・朝里紀行』平成30年
◇小樽港湾建設事務所『写真集 小樽築港100年のあゆみ』平成9年
◇小樽郡朝里村役場『札樽国道小樽銭函間改良工事写真帖』昭和9年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第7巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇小樽市役所『小樽市史 第8巻 行政編(中)』(新版)平成6年
◇小樽市役所『小樽市史 第9巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇小樽市『未来のために=山田市政3期12年をふりかえって=』平成24

◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『小樽』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『銭函』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『小樽東部』大正7年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『石倉山』大正5年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽東部』昭和25年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『張碓』昭和31年
◇国土地理院 航空写真各種

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