2020.09.28地域歴史情報

”美しき唄のまち”『美唄』の歴史 ~大正・戦前編~

さて、前回明治期における美唄=沼貝村の歴史を紹介しました。
明治の前半においては、空知・上川エリアはまだまだ未開で石狩川を船で川伝いに探検していたものが、明治20年以降整備された上川道路によって、現在の旭川である忠別太も含め、空知・上川エリアの開拓が本格化してゆきました。
その中で、明治24年以降、四ヶ年の屯田兵と民間の開拓団体の入植とで開拓が本格化してゆきます。

明治29年の奈井江と岩見沢の地図

前回紹介した明治後期の地形図ですね。
ここから大正時代に入ってゆきます。
大正2年には徳田炭鉱飯田美唄炭鉱の第1抗が開坑します。徳田炭鉱はのちに新美唄炭鉱と名を変えますが、この頃から炭鉱開発が本格化してゆきます。
それまでもライマン氏の調査によって、石炭の埋蔵があることは判明していたものの、この頃になってようやく沼貝村(美唄)では大規模な機械的方法による炭鉱開発が始まってゆきます。
大正3年、美唄駅から東側の美唄東部に石炭の運搬を目的として美唄軽便鉄道が開通し、沼貝駅我路駅が開業します。
この美唄軽便鉄道・・・美唄鉄道については、鉄道免許自体は明治末期から取得していたのですが、あれこれと紆余曲折があり、大正4年三菱合資会社が設立した美唄鉄道株式会社に事業を譲渡されます。・・・本当にややこしい紆余曲折があり、権利関係が複雑すぎるので今回の記事で紹介することは差し控えます。

同じ大正4年には同じく三菱合資会社が飯田美唄炭鉱を買収して三菱美唄炭鉱と改称します。同じタイミングで徳田炭鉱が新美唄炭鉱と改称します。
その後、沼貝炭鉱錦旗炭鉱市川炭鉱上村炭鉱光珠炭鉱などが次々と開鉱してゆきます。
さて、大正5年大日本帝国陸地測量部による5万分の1地形図を見てゆきましょう。

大正5年の岩見沢と砂川の地図

前回ご紹介した、屯田兵の入植地である『美唄○○年兵』がそれぞれ記載されていますね。

屯田兵以外の開拓民の拠点として美唄駅の南西には『京極農場』、それより東側に『開發宅地』、その少し北側に『葵農場』、美唄川から見て反対側の東側の山あいには『櫻井農場』、北東には『美培農場』と各開拓地が多数記載されています。
また、上川道路の東側には『北沼ノ内』『南沼ノ内』という記載がありますが、これは現在に残る地名であるところの美唄市沼の内町に引き継がれていますね。
そして、前述の『美唄鐵道』の線路が美唄駅から東側に伸びていっていますね。
また、大正5年に美唄駅と奈井江駅の間に茶志内駅が開業しており、これも記載されています。

 

大正4年の美唄市街国道

上記は大正4年に上川道路から北側を撮影した写真ですが、空に掲げられているのは鯉のぼりでしょうか?ただの吹き流しでしょうか?メインストリート沿いではありますが時代柄、木造2階建て住宅が立ち並んでいますね。

そこから少しだけ時代を下って大正10年の上川道路沿いを見てみましょうか。

大正10年の美唄市街地

ぱっと見はさほど変化がないように見えますが、道路脇に電信柱が多数立っていますね。
札幌市内であっても郊外の民地では戦後まで電灯もなかった地区も多数あったのですが、やはり上川道路は国道ということもあり、電力供給ルートになっていたという事なのでしょう。
また、写真右側には馬車が写っていますが、そのやや左後ろの車輪は自動車でしょうか?時代的にはさほど不自然という訳ではありません。

 

中心部からは離れますが大正9年には美唄駅と峰延駅の間にのちの光珠内駅となる光珠信号所が設置されています。

美唄鉄道沿の沢

石炭の運搬の為に敷設された美唄鉄道ですが、役割を果たすには渓谷や丘陵を乗り越えなければなりません。

写真では渓谷に架かった鉄道橋を渡る蒸気機関車が見えますね。

炭鉱の櫓

大正12年には三菱美唄炭鉱に現在も残る竪坑櫓2基が建設されました。
竪坑櫓は、『たてこうやぐら』と読み、地下と地上とを結ぶ、ある種のエレベータ、昇降機です。高さ20m、地下170mとの間を人員や石炭を運搬していました。
三菱美唄炭鉱はこのような近代的設備での炭鉱開発を展開し、美唄鉄道を利用してこれを小樽へと積み出していった訳です。

炭鉱で働く男性

『近代的』と表現しましたが、戦前の炭鉱では主要部分では電力や蒸気機関での機械化が進んでいたものの、坑道は坑木とよばれる丸太によって支えられ、ツルハシやトロッコによって採掘が行なわれてていました。
平成も終わってしまった令和の時代では近代と言っても範囲が広くなってしまったものと感じますね。
他の炭鉱の例に漏れず、美唄でも炭坑事故は多数起こっています。

炭鉱メモリアル森林公園

三菱美唄炭鉱の跡地は現在、『炭鉱メモリアル森林公園』として無料で公開されており、前述の大正12年に設置された竪坑櫓2基についても塗装が施され、保存されています。
(勿論、何もかもが当時のままという訳ではありません。閉山時には竪坑櫓の滑車部分が取り外された映像なども残っています。)

 

さて、沼貝村(美唄)の東部にある山間部では炭鉱が発展してゆきますが、東部の平野部についてはどうでしょうか。
現在の北広島市と恵庭市の境界付近にあった島松駅逓所はお雇い外国人ウィリアム・スミス・クラーク氏が札幌農学校第一期生に別れの言葉『Boys, be ambitious!』(諸説あります)を言った地とされていますが、もう一つ、駅逓の責任者であった中山久蔵氏による寒地稲作発祥の地とされています。
この中山久蔵氏は、空知・上川地方に積極的に稲作の普及を行なった人物であり、美唄についても平野部では稲作が普及し、水田地帯となってゆきました。

大正12年の美唄の水田地帯

現在でも美唄市の農産物のうち、米は作付面積・生産量ともにトップを誇っています。

さて、大正14年6月11日には、沼貝村に町政が施行され沼貝村に昇格し、翌年同日大正15年6月11日には更に美唄町に改称します。
エネルギー≒石炭という時代において、空知地方の各炭鉱は隆盛を誇り、美唄も同様に石炭と白米の生産で発展してゆきます。
時代は昭和に移り、炭鉱の近代化は更に進んでゆきます。

昭和3年の美唄駅

こちらは昭和3年の国鉄美唄駅の様子です。写真右側に映っているレールは特急用のレールでしょうか。
昭和初期の中心部の様子を見てみましょう。

昭和初期の上川道路

上記は昭和初期の上川道路周辺の様子です。
やはり木造2階建て三角屋根の建物が多く、また送電線の類が充実していますが、建物の看板がより大きくなり、路面にはのぼりなども多く上がっていますから、商業的に反映していたという事がよく分かりますね。
また、写真の中だけで馬ソリが2基あり、徒歩の人々も冬期はソリを利用していたことが分かります。

昭和7年の美唄町役場

木造二階建ての美唄町役場は現在の美唄市立病院の敷地に所在していました。
写真右後方に現存する『沼貝開拓紀念碑』が見えていますが、これは大正15年に町名が変更となる際に『沼貝』という名を遺す為に建立されたものとのことです。

沼貝開拓記念碑

前述の通り、平地部は穀物生産の拠点となった一方で山間部は『近代的』技術によって発展してゆきます。
また、大正後期以降、石炭需要の減少や第一次世界大戦を終えた後の不況によって中小の炭鉱が財閥系企業へ集約していくという動きがありました。

新美唄炭鉱

かつて徳田炭鉱という名前だった新美唄炭鉱の昭和初期の状況です。
奥に鉄道線路が見えるほか、かなりの密度で建物が建っている事が分かりますね。

三菱美唄炭鉱

美唄炭鉱も、美唄線にはかなり近代的なホームが設置されていました。石炭の列車への流し込みなども行っていたのではないでしょうか。

 

現在の南美唄にあった光珠炭鉱昭和3年に三井鉱山に売却され、美唄炭鉱となって財閥資本が投下された事でかなりの繁栄を遂げ、密集した同型の建物が立ち並び、送電柱がきっちりと整備されている事が分かります。
三『菱』と三『井』で紛らわしいですが、どちらも財閥によって拓かれた美唄を代表する炭鉱です。

美唄炭鉱住宅街

現在の札幌市域でも電力供給がなされるのは戦後になってからの地域が多くあった訳で、炭鉱街に関しては発電の為の石炭が多かったことや、炭鉱は三交代勤務であったことなどから、電力が優先的に供給されていたという事情があります。

 

昭和6年には、美唄炭鉱で産出した石炭を運搬する為に美唄駅との間を結ぶ専用の鉄道『南美唄支線』とその唯一の駅である南美唄駅が設置されます。

南美唄駅

このようにして、大正から昭和初期にかけては炭鉱の近代化を中心に美唄は発展をしてゆく訳ですが、昭和12年に勃発した支那事変≒日中戦争の勃発と、そこからずるずると大東亜戦争≒アジア太平洋戦争に踏み込んで行ったことによって石炭の増産は国家的事業となり、昭和14年には『石炭販売取締規則』『価格統制令』昭和15年『石炭配給統制法』が施行されることで国が石炭を一元的に管理するようになります。
財閥の影響力が強まる中で、昭和16年には新美唄炭鉱が三井美唄炭鉱の傘下となります。
一方で徴兵による人手不足で炭鉱の働き手は減少し、朝鮮人、中国人、戦時俘虜など海外からの人員を働き手とすることもあったようですが、過去の経緯について現代の倫理観や社会常識で語ることはしません。

 

戦時体制下で石炭の増産が国家的事業となっており、資料によって記載にばらつきがありますが、昭和15~19年のいずれかに石炭生産量≒出炭量が戦後も含め、最大を記録することとなります。

 

そして、昭和20年8月、敗戦により大東亜戦争≒アジア太平洋戦争が終結します。
戦後の美唄の歴史については次回以降紹介をしてゆきますが、お察しの通り、戦時体制の終了と財閥の解体、石炭から石油へのエネルギー革命など、炭鉱の街としては波乱の時代を迎えることになります。

 

当記事は『イエステーション:北章宅建 美唄ダム』のネーミングライツと同様にイエステーション:北章宅建のスポンサーでお送り致しました。
空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購⼊・賃貸・管理についてのご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年

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