2021.09.14郷土誌から読み解く地域歴史情報
美唄市北部、『茶志内』の歴史 -大正・戦前編-
さて、前回は美唄市北部にある茶志内エリアの歴史について、茶志内屯田兵工兵隊の入植当初から紹介してゆきました。
札幌と旭川を結ぶ現在のJR函館本線と国道12号線という2つの主要交通インフラは、明治期から既に北海道炭礦鉄道空知線→国鉄函館本線と上川道路という形で存在していましたが、茶志内屯田兵村にはまだ駅が設置されていませんでした。
屯田兵という制度は明治37年に廃止されていますが、入植した人々の多くはその土地に定着していましたから、大正期に入っても茶志内の住人は屯田兵にルーツを持つ方が大半であったでしょう。
時代が大正に移り、大正5年には国鉄の駅として茶志内駅が開業します。
木造平屋建の小規模な駅舎で、屋根には大きな煙突があるように見えます。駅舎を温める為の暖房用の煙突でしょうか。
写真が昭和11年のものだからかもしれませんが、周辺に電信柱が多く立っていますね。
線路は比較的平らな地面に敷設されており、盛り土はさほどされていないように見えます。
現代の茶志内駅付近では1m以上の盛り土がされています。
これは水害などの際に線路を可能な限り水没させない目的で盛り土されたもので、明治~昭和50年代後期までは北海道では水害が当たり前でしたから、その対策も兼ねている訳です。
令和の現代で、気象の激甚化によって水害が増えている、というイメージがあるかもしれませんが、水害が人々の生活から遠のいたのは、昭和末期から平成のごく僅かな間の事だったと言えるかもしれません。
さて、茶志内駅が設置されたのと同年大正5年に発行された大日本帝国陸地測量部の地形図を見てみましょう。
明治期の地形図との違いとしては、茶志内駅が新設されている他、サンケピパイ川が産化美唄という表記に改められています。
また大きく沼貝村と大きく村名が記載され、その中の字(あざ)として茶志内という記載がされています。
上川道路の両脇に沢山の民家が建っているほか、道路も多く整備されて来ていますね。
今回は古地図を読みなれない方の為に、大日本帝国陸地測量部作製の地形図の凡例の一部をご紹介します。
これを踏まえて地形図を見てみると、黒い■は建物ですから、大正当時の茶志内では、農地の殆どが水田として開拓されていたという事が分かります。
しかし、画像中央の上川道路からやや東側に、γとmを組み合わせたような地図記号が描かれています。これは凡例左下の右の『竹林』があった、という事になっています。
しかしながら『竹林』と言っても、本州のようなモウソウチクなど・・・かぐや姫でイメージされるような竹は、北海道では道南のごく限られたエリアでしか生育しません。
おそらくこれは、北海道の方言で言うところの『ササタケ』で、いわゆる竹ではなく笹であり、この一帯は笹薮であったのではないかと思われます。
インターネットで『ササタケ』と検索するとその名称のキノコが、また『笹竹』と検索すると、『チシマザサ』の方言とされていますが、北海道に生まれ育った身からするともっとアバウトに七夕で飾る笹のように背の高くない、藪になるような笹全般を指しているように感じます。
さて、前回の記事で示した明治期の地形図も見比べてみましょう。
『濶葉樹』ー『かつようじゅ』と読み、現代語で広葉樹の事ですーの他は『竹林』ーおそらくは笹薮ーに覆われていたことが分かります。
これから半世紀の2~30年の間で、よくここまで水田を開墾したものです。
産化美唄川の他にも、十二号橋と十三号橋の架かる川がありました。現在は農業水路によって原始河川の流路が変わってしまっているので100%とは言えませんが、十三号橋の架かる川は十三号川と呼ばれていたようです。
十二号橋が架かる川については最新のゼンリンの地図を確認しても、インターネット上の資料に当たっても、その名称は今のところ分かっていません。おそらく、十二号川なのだとは思いますが・・・
なお、北海道の農業用水としてはるか北の赤平から美唄を経由して南幌に至る北海幹線用水路は大正13年から4年を掛けて開削されたもので、この頃の地図にはまだ記載がされていません。
北海道幹線用水路は現在も空知地方の農業に多大な貢献をしています。
日本の食糧事情を支えている用水路であると言えるかもしれませんね。
さて、大正12年頃の屯田兵屋の写真を見てみましょう。
屯田兵は、以前紹介した通り一定面積の土地と屯田兵屋を与えられ、そこで一家で開拓に励みつつ軍事訓練も行ない、開拓した土地で農業を営むという生活を送っていました。
屯田兵屋は場所や時期によって何種類かのタイプはあるものの、一つの屯田兵村では原則的に皆同一のデザイン・構造の屯田兵屋に住まっていました。
屯田兵はいわば公務員ですから、その官舎たる屯田兵屋に違いがあれば、不平不満が噴出してしまいます。そういった意味で、同じ兵村では基本的に同じ屯田兵屋が与えられた訳です。
ちなみに、美唄屯田兵村(騎兵)や高志内屯田兵村(砲兵)の記事の際にはそれぞれの屯田兵本部の写真を紹介していますが、前掲の写真は一般の屯田兵屋であって、茶志内屯田兵村の屯田兵本部の写真は見つけられていません。
屯田兵本部も概ね似たような意匠・構造のものが多いんですけどね・・・
画像は江別に現存する野幌屯田兵村の本部で、現在は江別市屯田資料館の写真です。
当の茶志内兵村の本部に関しては、現在はその跡地に国道12号線沿いに石碑だけが遺されています。
なお、大正14年にはそれまで単線であった函館本線が美唄駅・奈井江駅間で複線化しています。
単線というのは上りも下りも1本の線路で運用する方式で、当然車両は行き違えませんから、ピストン輸送となります。
対して、複線は上りと下りに1本ずつ線路がある為、相互に柔軟な運用ができます。更に線路が増えると三線、複々線、三複線(複々々線)などと言います。
さて、時代は大正から昭和に移り、大正の末年である大正15年には沼貝は美唄町へと改称しています。
その頃・・・昭和3年の茶志内のリンゴ園の写真を見てみましょうか。
北海道のリンゴ生産は開拓使によって明治初期の札幌で始まり、平岸村の名物となり、高付加価値の商品作物として平岸リンゴというブランドも生まれました。
ここで言う平岸とは、現在の札幌市豊平区平岸だけではなく、南区澄川、真駒内からなんと定山渓までを含む非常に広い範囲の自治体で、明治35年には豊平町と合併しています。
前述した通り、茶志内では稲作が盛んでありましたが、高付加価値の商品作物を生産しようという農家があっても不自然ではありません。
しかしながら、リンゴの生産には多くの農薬や肥料が必要となる為、戦時中にリンゴ園を維持することは困難を極め、札幌でも商品としてのリンゴ生産は途絶えてしまいました。
茶志内を含む美唄全域でのリンゴの生産状況を確認しましたが、リンゴが商品として出荷されていたり、観光農園が営まれている状況は確認出来ませんでした。
昭和11年、茶志内駅前付近から現在の国道12号線沿いに市街地を見た写真です。
現在の国道12号線・・・上川道路は、明治40年に国道43号線に指定され、大正9年には国道27号線と改められ、現在の国道12号線とされたのは戦後になってからの事で、どうにも紛らわしいですからそのように呼称しましょう。
上川道路沿いなので電信柱が立っていますが、同時期の美唄中心部の写真は二階建ての店舗や住宅が多いのに対して、茶志内の中心部では平屋建て住宅が殆どであり、店舗らしき看板も見当たりませんから、やはり中心部よりは発展していなかったと言えるのでしょう。
同時期、函館本線の整備も進み、昭和13年には住民の請願により茶志内駅に側線が設けられて部分的に三線化したようです。
更に同時期、昭和15年に撮影された茶志内屯田工兵隊の生存者の写真を見てみましょう。
当時は戦時中の厳しい時代ですが、明治24年~27年に入植してから46~49年のタイミングですから、半世紀の節目を迎えて・・・という事なのでしょう、——-女性も多く写っており、年代を考えても屯田兵の戸主本人だけではなくその子女も含まれているのではないかと考えています。
終戦直前の昭和19年には三菱鉱業が日東美唄炭鉱を買収しました。日東美唄炭鉱という名前が突然出てきましたが、この炭鉱は茶志内駅の北東に所在しており、美唄市史では大正6年~7年頃に開発され、所有者を転々とした後に大正10年には日米信託株式会社という法人が購入した事になっていますが、一方の美唄市統計書では昭和12年に開山した事になっており、整合性が取れないばかりか三菱鉱業に買収されるまでの経緯については殆ど情報が遺されていません。
さて、今回はかなり横道に逸れつつも大正から戦前までの茶志内エリアの歴史を紹介してゆきました。次回は戦後から現代にかけての経緯を紹介してゆく予定です。
空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購入・賃貸・管理についてのご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。
細井 全
【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇美唄市『美唄市統計書 平成27(2015)年版』平成28年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇吉田初三郎『美唄市鳥観図』昭和27年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年
このブログへのお問い合わせは
美唄店 赤井 圭一出会うお客様は一人一人違う想いを持っていらっしゃると思います。それぞれのお客様に共感し、最後には「任せて良かった」とご納得していただける様日々取り組んで参ります。 空知エリアの不動産に関する事は私にお任せください。