2021.05.17郷土誌から読み解く地域歴史情報

南美唄・光珠内・峰延の歴史 -昭和後期・平成編ー

さて、前回は昭和に時代を移して、石炭の街として繁栄した概ね昭和30年代前半までの美唄市南部エリアー南美唄・光珠内・峰延の歴史を紹介しましたが、ここから炭鉱の街にとっては厳しいエネルギー革命とモータリゼーションの時代を迎えることになります。

 

まず、昭和30年代後半からは石炭から石油へのエネルギー革命が始まります。発電は石油火力発電の割合が増加し、その電力によって蒸気機関車から電車への移行も進んでゆきます。
プラスチックやガソリンをはじめとした石油製品が人々の生活の必需品となっていった結果、石炭の価値は徐々に下落してゆきます。

昭和37年には三井鉱山で利用していなかった鉱区が同じ三井グループの三美鉱業株式会社へ承継され、操業されるようになります。
三美鉱業は現在でも南美唄で石炭の露天掘りなどを行なっています。
三美鉱業の親会社はかつて三井鉱山株式会社と言いましたが、平成20年に株主構成が変わり、住友商事株式会社と日本製鉄株式会社(前:新日鐵住金株式会社)の持分法適用会社となっており、平成21年には日本コークス工業株式会社と社名が変更されています。
株主構成の詳細までは分かりませんが、現在は住友グループの影響が強いようです。

三美鉱業が開業した翌年の昭和38年には三井鉱山美唄鉱業所が閉山してしまいます。これで完全に炭鉱関連の施設がなくなってしまった訳ではありませんが、規模は年々と縮小していったようです。

 

それでは昭和30年代後半の航空写真を見てゆきましょう。

昭和30年代の美唄の航空写真

うーん、白黒では見づらいですね。
国道と鉄道線路の周辺に人家が密集していること、画像中央上部やや右側の南美唄駅周辺が炭鉱住宅によって住宅地化されていること、田畑が多くまだ人家も少ないことが何とか分かる程度でしょうか。

 

さて、エネルギー革命によって炭鉱の雲行きが怪しくなってきた一方で、昭和43年には学校法人専修大学によって光珠内駅の東側に直線距離で1.2km程度の場所に専修大学美唄農工短期大学が開学します。
経済成長の影響もあってか昭和40年代、北海道では北見工業大学、札幌大学、北海道工業大学、札幌学院大学、北海道薬科大学、北海道医療大学、光塩学園女子短期大学など大学開校ラッシュにありました。

 

北海道の人口もまだまだ増え続けると思われていた時代でしたから、今は廃校となったり、移転や統合がされてしまった大学もありますね。
そんな専修大学美唄農耕短期大学には農業機械科、農業土木科、農業経営科の3科が置かれ、農業に関連する実学的な教育が目指されたようです。

 

経済発展の中で自動車の普及=モータリゼーションも進み、鉄道の役割も少しずつ変わってゆく中で、昭和43年には峰延駅・光珠内駅の両方で跨線橋が設置されます。
これは、技術革新に加えモータリゼーションに対抗して鉄道が高速化し、特急などが増加することでの人身事故の防止という観点もあるでしょう。

現在の光珠内駅の跨線橋

こちらが現在の光珠内駅跨線橋です。

現在の峰延駅の跨線橋

こちらは峰延駅跨線橋。どちらも外壁や出入口の鉄筋は新しくなっていますので、当時のものではないでしょうが、階段底面の鉄骨はかなり傷んでいるようですから、設置当時の部材も混ざっているかもしれません。

 

エネルギー革命・モータリゼーションによって、北海道の各地は方向転換を強いられることになり、これが現在の北海道の窮状にも繋がっている訳ですが、昭和46年にはついに三井練炭美唄工場が閉鎖され、南美唄駅旅客と荷物の取り扱いを停止して貨物専用駅となってしまいます。

旅客がまず廃止される時点で、南美唄エリアの人口はかなり減っていたと判断するべきなのか、或いはモータリゼーションによって南美唄と美唄を結ぶ南美唄支線をわざわざ利用しなくなったのか、根拠は見いだせていませんが、ともかくとして昭和48年には南美唄駅と南美唄支線が廃止されてしまいます。
その頃の航空写真を見てみましょう。

昭和48年頃の美唄の航空写真

やはり、かなり見づらくなってしまいますね。
国道・鉄道沿い以外の平野部にも家が増えて来ましたし、南美唄駅周辺の人口密集度も上がっているようです。
個別の写真も見てゆきましょう。

昭和45年の峰延商店街

こちらは昭和45年峰延商店街の写真です。確証はありませんが電気信号機が設置されており、道路の中央に白線があってアスファルト舗装がされているように見えますから、国道12号線沿いの風景なのではないかと考えます。
手前のトラックや大型車のほか、奥には普通乗用車の姿も見えます。

昭和45年の南美唄の商店街

こちらも昭和45年頃の南美唄商店街ですが、こちらは幹線道路ではないという事もあり、まだ砂利舗装のようですね。
往来では自転車を使っている方が多いようですが、右奥に2台ほど大きめの車が見えます。手前は馬車かもしれません。

 

昭和53年には南美唄三井美唄鉱山の付近に陸上自衛隊美唄駐屯地が設置が設置されます。

自衛隊美唄駐屯地

陸上自衛隊美唄駐屯地と大日本帝国の屯田兵との間に直接的な関係はありませんが、この付近は美唄二十五年兵の集落があった場所ですから、近隣住民には子孫の方もいらっしゃったのではないでしょうか。

美唄駐屯地の駐車場

雨の自衛隊官舎

自衛隊官舎と駐車場

自衛隊の駐屯地があるという事は周辺に経済波及効果があるということで、美唄南部のエリアでそれなりの人口密度が保たれている事にも寄与していると言えるでしょう。
その一方で国鉄はどんどん厳しい状況に追い込まれてゆき、光珠内駅と峰延駅では徐々に業務の整理・簡略化が進んでゆきます。

美唄駐屯地の設置と同じ昭和53年には光珠内駅物の取り扱いが停止して無人化し、峰延駅では物の取り扱いが停止となります。(光珠内駅では、当初から物の取り扱いはありません。)
昭和59年には峰延駅も荷物取り扱いが停止されて無人化し、両駅とも旅客のみ取り扱いの駅となります。
昭和62年には国鉄の分割民営化により両駅ともJR北海道の駅となります。
さて、航空写真が見づらく、また撮影した年代に偏りがある為、昭和63年国土地理院が発行した5万分の1地形図を見てゆきましょう。

昭和63年の美唄の地形図

人口密度が更に上がり、田畑の農地開発も進み、各地に町名が付されるようになっています。
先に紹介した『自衛隊駐屯地』『専修大学短大』といった記載も見られますね。

現在の光珠内駅

現在の光珠内駅です。
炭鉱の閉山によって、美唄市南部エリアは平成以降注目される機会が非常に減ってしまったエリアであると言わざるを得ないでしょう。
平成22年には専修大学美唄農工短期大学が翌年以降の学生の募集停止を発表し、平成24年閉校平成29年には大学が廃止となり、その敷地は平成30年ディスカバリー有限責任事業組合が取得していますが、それ以降の表立った動きは見られません。

平成19年の美唄エリアの航空写真

上記は平成19年以降の航空写真です。
このような背景の中で美唄市全体でも人口はピーク時の約9万人から現在の2.4万人まで落ち込んでしまう訳ですが、美唄市全体としては国道12号線とJR函館本線、道央自動車道といった交通インフラが充実した札幌と旭川の中間にある立地を活かし、内陸型工業団地である空知中核工業団地、特急停車駅の美唄駅、美唄インターチェンジ、ラムサール条約登録湿地の宮島沼など、将来的にも利便性は十分に担保されていると言えるでしょう。
また、南美唄エリアでも先に触れたハスカップの生産や白米の生産など、道産食材の生産地としての美唄ブランドを確立しつつあります。
そういったポテンシャルを活かして南美唄エリアが農工両面で発展することを願ってやみません。
空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購入・賃貸・管理についてのご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇吉田初三郎『美唄市鳥観図』昭和27年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年

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