2020.10.28郷土誌から読み解く地域歴史情報

”美しき唄のまち”『美唄』の歴史 ~戦後編~

さて、前回前々回と炭鉱と稲作のまち、美唄の歴史を紹介して来ましたが、終戦を経て現代までの間、美唄はどのような経緯を辿ってきたのでしょうか、紹介してゆきましょう。
さて、敗戦の年、昭和20年の9~11月には、美唄炭鉱で働いた外国人達が母国に帰り、その代わりに朝鮮半島、台湾、樺太、満州などのいわゆる『外地』からの引揚者が帰国しました。
この、引揚者が炭鉱としての美唄、農村としての美唄の両方に大きな役割を担う事になったのです。

 

やや唐突ですが美唄のメインストリートである上川道路≒現在の国道12号線の周辺の様子を見てみましょう。

美唄市街大通り

昭和初期の写真と比較すると、戦後の写真では商店の看板が掲示されているほか、やはり電柱が目立つのと、その脇に札幌にもあるスズラン街灯が設置されていますね。
三角屋根の建物が減り、陸屋根の建物が増え、中には3階建てと思われるような建物も散見されます。
写真には中央付近に2台のオート三輪が写っているように見えます。
中央やや左側に白く写っているのはダイハツ・ミゼットに似ているように見えますがミゼットにはないセンターピラーが見えますので、オート三輪ではないかもしれません。
中央やや右側の轍の先に写っているのは一見するとバイクのようですが、車輪の位置や荷台を見るにマツダのオート三輪に近いのではないかと思います。
道路も砂利敷きではありますがどんどん整備されている様子が伺えます。

 

さて、名物、内務省地理調査所発行の5万分の1地形図を見てゆきましょうか。
今回は画像上部が昭和23年、下部が昭和26年に発行されたものを組み合わせた画像です。

昭和の美唄と砂川

前回紹介の大正時代の地形図と比較した場合に、各農場や立地については大きな違いはありません。
前回紹介した昭和6年に開設した南美唄支線『南美唄駅』が地図中央やや右下に記載されており、『三井炭山』として美唄炭鉱の市街地が形成されていることも分かりますね。
左下には『美唄原野』という記載が見られますが、現在の地名で言えば光珠内町や一心町でしょうか。
それまでは地図記号だけの記載だった『空知神社』の位置が若干ずれ、しっかりとした記載となっているのも興味深いですね。
空知神社の歴史を調べてみると、前回の地図の後、今回の地図までの間の大正14年新しい社殿が竣工し、『郷社』に昇格し、昭和8年に『県社』に昇格しているとの事ですから、おそらく新しい社殿の建設に伴って、地図の記載も立派なものになったということでしょう。

 

昭和21年には、美唄北部の茶志内地区の一部が、隣接する奈井江町へ編入されます。
昭和23年にはGHQによる農地解放で地主が所有していた農地が小作人に破格の条件で払い下げられます。

 

さて、前述のように地図で見るとさほど大きな変化のない戦前と戦後の美唄でありますが、前述した引揚者の問題は北海道各地において大きな影を落としていた、と言わざるを得ないでしょう。
そも、海外に地盤を築いていた人々が、不動産はおろか金融資産もない身一つの状態で縁もゆかりもない北海道に住まうというだけでも困難を極めるのに、敗戦後の日本政府には彼らを援助するだけの力など、到底持ち合わせてはいないのですから。
炭坑では外国人労働者の穴を埋めるべく引揚者は炭鉱労働者になったほか、昭和20年~昭和30年の間には引揚者を中心とした未開の原野への入植が試みられます。

美唄 入植地

・・・えーと、本当にこのレベルの原野です。
写真の人物の足元にある草は倒れているので、雪解け後の写真か、或いはある程度草を刈った状態なのかは判別できませんが、指を指している先の地平線上にあるものが、入植小屋でしょう。
さて、入植者の人々の住居の様子も見てみましょうか。

美唄の入植者の家

・・・・・・・・・・・・(; ・`д・´)

 

三匹の子豚で表現するのであれば「藁の家」ですね。
藁葺の小屋に、床はすべて土間、これで冬を越さなければならないというのですから、もう、踏んだり蹴ったりと言いましょうか、何と言いましょうか・・・
これまで『過去の経緯について現代の社会常識や倫理観で語ることはしない』と言って来ましたが、これは当時の世界観においても異質なことであることは間違いありません。
明治20年頃、開拓使として美唄に入植した人々の住居として支給された屯田兵屋について美唄市立郷土資料館で展示されている模型を見てみましょう。

美唄の屯田兵の家の模型

柾葺屋根の木造の小屋、三匹の子豚で喩えれば「木の家」ですね。
実物の復元としては美唄市西1条北2丁目美唄屯田兵屋として北海道指定有形文化財として無料で公開されていますが、建築基準法の関係で当時の柾葺屋根ではなくトタン葺になっています。

復元された屯田兵の木造家屋

間に合わせとはいえ、きちんとした木造家屋であり、開拓使では屯田兵の住居について、技術的に未成熟な部分はあるにせよ、それなりに配慮をしていました。

木造屯田兵屋の内部

建物内についてはある種の断熱材のような役割が期待されたのか、藁が葺かれていますが、それにしても戦後の開拓民よりも開拓使の方が恵まれていたのではないか、と思わざるを得ないような状況です。

とはいえ、開拓地以外の道路や鉄道、中心市街地は当時として十分に整備がされている状況ですから、本当に未開の原野を開拓するよりは多少気楽だったのではないか、という側面もあるかもしれませんが。

 

このような形で本来は農業に適さない立地についても引揚者の受け入れによってやむを得ず農地化が進んでゆくことになった訳です。

 

ちなみに美唄屯田兵屋の所在する一角は『旧桜井家住宅』や『美唄屯田騎兵隊火薬庫』などがあり、美唄市教育委員会が管理している美唄の文化財の集合地ですが、その南西側約25m、美唄市大通西1条北2丁目1-28にはイエステーション:北章宅建 美唄店があります。

イエステーション北章宅建 美唄店

こちらの店舗では不動産の仲介の他、空き家の活用や整理のお手伝いなども行なっています。

 

さて、話を美唄の歴史に戻しましょう。
引揚者の受け入れによって炭坑と農村の人口は増してゆき、昭和25年、美唄町は市制施行によって北海道で15番目の市として美唄市となります。

美唄市役所の看板

市制施行に併せて、従来は現在の美唄市立病院の周辺にあった美唄町役場が現在の所在地周辺に美唄市役所として移転新築されます。

昭和25年の美唄市役所の外観

市制施行にあたっては祝賀パレードも行われたようです。

市制施行祝賀パレード

市制施行後の美唄市はまさに全盛期、炭鉱では近代的な工業機械が取り入れられ、農村では、農業に適しない土地に、農業に適した土壌を運び込む『客土』(きゃくど)などの土壌改良によって、工・農の両面で発展してゆき、昭和31年には9万人超と人口のピークを迎えます。

ちなみに令和に入ってからの美唄市の人口は2万人程度となっています。

昭和30年の採炭現場

戦中からの事ではありますが、電気を使った大規模な工作機械や、従来の金づちや鑿の代替として圧縮空気で石炭を削り取るコールピックハンマー=ピックと呼ばれる機械などでのより効率的な炭鉱開発が進んでゆきます。

採炭する男性

その陰では炭鉱事故なども頻繁に起こっていたのですが・・・

救急隊の装備

農業では『客土』が行なわれたと記載しましたが、これ自体は北海道各地で行われた事業であって、美唄において特筆すべきは昭和30年から行われた『架空索道客土事業』です。

索道客土事業

『架空』とは、空想上の、という意味ではなく『空中に架け渡す』という意味です。
『索道』≒ロープウェイを空に架け渡して農業に適した土壌を運び込む事業、という事です。
写真では高圧鉄塔のような大きな鉄塔にロープウェイが架けられ、コンテナ状の設備で大量の土壌が運搬されている様子が分かります。
美唄市発行の資料のキャプションでは国内『唯一』と記載されていますが、北海道開発局の資料では国内『初』となっています。
『唯一』と『初』は矛盾する記載ではありませんが、他に国内での事例があるのか、気になる処です。
美唄は明治後期から水田地帯となっていましたが、写真の手前側にも水田地帯が広がっていますね。
こういった形で農地がより広がりを見せ、北海道の一大農業生産地としての美唄の礎となっていったのです。

 

戦後、昭和30年代後半の航空写真を見てみましょう。

昭和30年の美唄の航空写真

写真中央より左側にある南北に走る直線道路は元の上川道路昭和27年には現在の名称である国道12号線に指定されています。

白黒写真ではっきりと見て取れますが、そのやや右側に並行して灰色でやや見づらい表記で国鉄函館本線があり、中央からやや下に美唄駅があります。
市街は美唄駅を中心に広がっており、かなり人口密度が高くなっていることが、建物の様子から見て取れますね。
一方で、市街地の後背には農地があることが見て取れ、農地と市街地が隣接していることがよく分かります。これは現在の美唄にも共通する特徴と言えます。
今回の航空写真から現れた構造物として、写真中央に南北に蛇行している黒い線が見て取れますが、これは大正13年から昭和元年にかけて開削された『北海幹線用水路』です。
これは現在も赤平市から空知川の水を取水して空知地方を南に向かって南幌町まで約80kmに渡って流れる農業用水で、空知エリアの農業において重要な役割を果たしています。

 

このように、戦後の美唄市は工業・農業の両面での発展を遂げ、最盛期を迎えますが、次回は現代に至るまでの経緯について紹介してゆきましょう。

 

当記事は『イエステーション:北章宅建 美唄ダム』のネーミングライツと同様にイエステーション:北章宅建のスポンサーでお送り致しました。
空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購⼊・賃貸・管理についてのご相談はイエステーションの各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年

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