2020.07.10郷土誌から読み解く地域歴史情報
トーメン石狩ニュータウン『緑ケ原&虹が原』とは何か ~歴史編~
さて、前回は石狩市の中心街、花川の北東側にあり、かつての石狩町と厚田村にまたがって所在するトーメン団地の緑ケ原と虹が原についてご紹介しました。
今回はそのトーメン団地がどのように開発されていったのか、或いは開発される以前はどのような姿であったのか、歴史について紹介してゆきましょう。
ところで、この青紫色の綺麗な花の名前をご存知でしょうか。
私はつい最近まで知らなかったのですが、この植物『亜麻』と言います。
『亜麻』と言いますと多くの方は『亜麻色の髪の乙女』という、既に慣用句にもなってしまっているような歌謡曲のタイトルが思い浮かべられると思いますが、そもそも『亜麻色』とは、どんな色なのでしょうか。
黄色がかった薄茶色と言いましょうか、褐色まではゆかない程度の”肌色”と言いましょうか、つまりはそういった色です。
前掲の亜麻の写真に亜麻色があるかというとそうではなく、この植物の茎の部分の繊維を煮込んで潰して、繊維状にする際に緑色が脱色して、布や糸となる際には、いわゆる亜麻色になる訳ですね。
亜麻は古代から使われていた繊維であって、現代でも『麻布』といえば大麻ではなく亜麻の繊維で出来た布であり、西洋ではリネンと言います。
ちなみに、現在、健康食品として注目されている亜麻仁油も、亜麻の種を圧搾して取り出した油です。
古代から利用された繊維である亜麻は、昭和30年代の化学繊維の登場までは主にロープや網などの繊維として亜麻が広く利用されていたのです。
長々と亜麻について解説してしまいましたが、今回はこの亜麻が重要な役割を担います。
明治期の主要政策である富国強兵とは、養蚕による絹製品、綿花による綿製品、牧羊による羊毛製品などの繊維工業の拡大をも意味していました。当時は軽工業が主体であった為、繊維工業こそが当時の経済躍進の手立てであったという訳です。
亜麻についてもそれは同様で、明治政府と開拓使は寒冷地でも育つ亜麻を北海道で大規模に栽培することを計画します。
札幌市営地下鉄南北線の北端の終点『麻生』駅の一帯は、北海道における亜麻栽培の発祥地であり、帝国製麻株式会社によって大規模な亜麻の栽培と繊維化のための工場が設置されていました。
現在も札幌市東区にあるサッポロビール博物館は、明治期の開拓使によって建築されたビール工場が原点ですが、その周辺は現在、札幌市の主導で『アマとホップのフラワーロード事業』として整備が進められています。
現在のトーメン団地にあたる一帯も、その発端は亜麻の栽培であったとされています。
このように、明治政府の富国強兵政策の中で北海道では亜麻の栽培が奨励されますが、明治14年度の亜麻の生産高の統計によると、札幌区(現在の札幌市中心部)と石狩郡(旧石狩町と当別町周辺)がトップとなっていますから、特に札幌と石狩で亜麻の生産が盛んであったということが分かります。
明治20年に北海道製麻株式会社が設立し、明治23年から本格的に開業、本社は札幌区北7条東1丁目=現在の中央区北7条東1丁目の、かつて札幌市中心部で盛況を誇ったボウリング場のテイセンボウル跡地にありました。
明治40年、北海道製麻株式会社は日本製麻会社と合併し帝国製麻株式会社となりました。
前述の『テイセン』の由来は北海道製麻→帝国製麻→帝国繊維と変遷した結果の社名の『帝』国『繊』維から来ています。
大正5年、帝国製麻株式会社は聚富川周辺に石狩製線所が設置されます。
『製線所』とはロープやひもなどの製造を担う工場で、網などを製造する場合には製網と表現するのが一般的です。
うーん、地図がシンプル過ぎて訳が分かりませんよね。
現在の国土地理院地図でまったく同じ画角のものと見比べて見て下さい。
この一帯を含め、石狩の各所で生産された亜麻は石狩製線所で繊維加工されていたとの事ですが、9年のうちに2度も火災に見舞われ閉鎖に追い込まれてしまいます。
その後、石狩エリアで生産された亜麻は札幌の工場で加工されることになったようです。
製線所の閉鎖後も工場跡地は亜麻の集積場として利用されていたそうですが昭和13年には帝国製麻株式会社から当時地元で亜麻の生産に協力していた農家さん数軒に払い下げられ、乳牛の放牧地になっていたそうです。
昭和10年の内務省地理調査所の5万分の1地形図を見てみましょう。
・・・えーと、何が何やらまったく分かりません。
聚富川と複数の川、そしてうっすらと道が付いているだけで、何なら大正5年当時の地形図よりも訳が分からなくなっているのではないでしょうか。
まぁ、ともかく亜麻の生産地としての役割を終えた聚富川周辺は、乳牛の放牧地となっていた訳ですが、戦後の航空写真も見てみましょう。
道のように見えているのはほとんどが水路で、それに沿った里道が白く映っているのかもしれません。当時、現在の国道231号線は当時、現在のルートよりもっと北西側を通っていたようです。
昭和43年、化学繊維などの台頭によって亜麻の需要は急激に減少し、帝国製麻株式会社が運営していた北海道内の工場はすべてが完全に閉鎖されてしまいます。
そして、乳牛の放牧地となっていたかつての石狩製線所、聚富川周辺は昭和47年に払い下げを受けた農家さんが所有していた土地を株式会社トーメンが取得し造成を開始します。
そして、石狩町側を『緑ケ原』、厚田村側を『虹が原』と命名し、昭和50年から『石狩ニュータウン』としての分譲を開始します。
当時は現代と比較すればインフラの品質もまだまだ低く、上水は地下水の浄化で賄い、下水は集中浄化槽方式で無人施設で処理をしていました。
これは、トーメン団地だけが特殊だという話ではなく、現在の花川エリアも当時は地下水を使っていたという記録がありますし、札幌市内各所でもそういった分譲住宅は多く見られたという事情があります。
トーメン団地として造成が完了し、分譲が開始した頃・・・昭和40年代のこのエリアの航空写真を見てみましょう。
道路は現在とほとんど同じ形に整備され、分譲当初のニュータウンの様子が分かります。
しかしながら、ここからどんどんと分譲と住居建設が進んでゆけばよかったのですが、どうにも分譲事業はそう順調には進まなかったようで、昭和58年段階での住戸数は石狩町緑ケ原が10戸、厚田村虹が原が3戸と非常に苦戦していたようです。
しかし、その後の昭和末期から平成初期のバブル景気の折にハウスメーカーが毎年数十棟の分譲住宅販売を実施してトーメン団地の入居者は一気に増えたそうです。
バブル崩壊は平成3年から平成5年にかけて起こりますが、ちょうどその頃、平成5年の航空写真を見てみましょう。
確かにバブルの頃の建売分譲が功を奏してか、住宅の数が大幅に増えていますね。
平成12年の時点で全874区画のうち、360区画程度が入居にこぎつけたようです。
ちなみに平成28年の時点では入居済み区画は436区画まで増えているとの事で、徐々に、徐々に住宅用となっている区画を増やしてきているようです。
直近・・・平成19年以後の航空写真では、平成5年の頃から建物の数はそう目立って増えている様子はありませんが、逆に一気に同世代の方が同時に入居したニュータウンは同時期に高齢化が進み、土地価格の暴落に進んでしまう傾向がありますから、このように徐々に入居が進んでゆく形式であればそういったリスクの懸念は低くなるのではないでしょうか。
先に紹介した通り、トーメン団地のインフラは分譲事業者によって造成されたものでしたが、平成8年にはこのうち道路、公園、街灯が石狩市に移管、平成10年には上水道が移管、そして平成14年以降は下水道施設について徐々に移管が進められています。当初から採用されていた集中浄化槽方式から、いわゆる『本下水』、つまりは下水道配管を下水処理場に接続して浄化する方式への切り替え工事が行われており、当初の予定であれば本年令和2年3月31日までに移管が完了される予定とされていました。
新型コロナウィルスの影響なのか、その後の経過について石狩市からアナウンスはありませんが、おそらくは予定通り完了したものと思われます。
豊かな自然を湛える石狩市のトーメン団地は、非常に購入のしやすい価格ともなっており、セカンドハウス用としても有用と言えるでしょう。
当記事は石狩エリアで地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有し、リフォームや賃貸物件の管理も得意とするイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
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細井 全
【参考文献】
◇石狩市郷土研究会『いしかり暦 第14号』平成13年
◇石狩町『石狩町史 上巻』昭和47年
◇石狩町『石狩町史 中巻一』昭和60年
◇石狩町『石狩町史 中巻二』平成3年
◇石狩市『石狩町史 下巻』平成9年
◇石狩市『石狩市年表:石狩市史/資料編1』平成15年
◇石狩市『石狩ファイル』各号
◇高岡開基百年事業協賛会『高岡開基百年史』昭和59年
◇大野忠夫『石狩市 石狩八幡町物語』昭和50年
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