2021.07.02郷土誌から読み解く地域歴史情報
小樽の隠れ家『忍路』の歴史 ~大正から小樽市への合併まで~
さて、前回は江戸期から明治初期にかけて近江商人の西川商店の影響下で発展した『忍路』の歴史と西川忍路支店を巡る商店主:西川貞二郎氏と忍路総支配人:大場庄兵衛氏の諍いと明治23年の忍路大火というターニングポイントについて紹介しました。
さて、大正以降の忍路の歴史について紹介してゆきましょう。
大正時代の忍路湾の写真ですが、忍路湾は2つの岬に囲まれた入江で、遠浅となっている為に係留できる船舶の数に限界があるように見受けられます。
また、おそらく漁獲したニシンの積み下ろしは写真の右手前側の湾の内側で行なっていたのでしょうが、ニシンが豊漁であった小樽の祝津・高島や余市と比較すると浜辺の面積が小さく、操業規模は限られていたのではないかと思われます。勿論、豊漁となった年もあったようですが、相対的な漁獲量という意味で忍路の漁村としての影響力は江戸期と比較して小さなものとなっていったと言わざるを得ません。
さて、大正4年に大場庄兵衛氏が逝去したのは前回紹介した通りですが、その9年後の大正13年には西川商店の西川貞二郎氏が逝去します。前回紹介したように忍路大火後の西川氏は北見や釧路など北洋漁業に注力していましたが、明治30年に過労と飲酒を原因として卒倒したあとは養子に家督を継がせて表舞台からは身を引き、それらの新規漁場を明治末期から大正初期にかけて売却して、大正4年には先祖伝来の忍路漁場のみが手許に残っていた状態でした。
その間も20年以上に渡って北海道に足を踏み入れることはなかったという事ですが、その頃にもこのような和歌を残しています。
”われはただ 忍路の海の 春ごとに 海幸あらん ことをのみにそ”
大正10年、西川貞二郎氏は忍路漁場の主任、竹内茂一氏の逝去をきっかけに20年以上ぶりに忍路を訪れ旧交を温め、またその翌々年の大正12年にも忍路を訪れた後に旭川や北見などへ道内旅行を行ない、かつて手放した事業の関係者などと再会しましたが、その翌年の大正13年には持病が悪化して地元の近江八幡で永眠しました。
忍路におけるニシン漁は現在も続いてはいるものの、その隆盛は往時と比ぶべくもありません。
大正から時代は移って昭和8年、北海道水産物検査所が忍路と塩谷に派出所を置きますが、昭和15年には合併して忍路に統一されています。
同時期の昭和11年には忍路小学校と蘭島小学校が合併して忍路中央小学校として発足します。現在でも小樽では小学校の統廃合が進んでいますが、どうしても平地が少ない海沿いの町であることから、通学の利便や児童数の問題が生じてしまうようです。
戦後の昭和22年には新しい教育制度の許で塩谷村立忍路中学校が設立します。当初の仮称は「塩谷村立第二中学校」が仮称だったようですが、地域の名称は残すべきという考え方だったのでしょうか。
さて、いつのまにか敗戦を挟んで戦後に入ってしまいましたが、内務省地理調査所作成の2万5千分の1地形図のうち昭和33年版『余市』と昭和28年版『小樽西部』を合成した地形図をみてゆきましょう。
忍路、忍路湾の表記はそのままですが、前回紹介した兜岩、ポロマイ岬、立岩の表記が変更となっているほか、新たに『恵比寿岩』という岩が記載されています。
写真左上部の海上にあるのが恵比寿岩、写真右下に映りこんでいる大きな崖が立岩です。
現在の立岩は護岸工事によってコンクリートで固められています。
前掲の地形図では上部に『岬』とだけ書いてある場所は『龍ノ岬』で、アイヌ語ではシリパ=岬と呼ばれていた為、和人由来の命名であろうと言われています。明治期は『龍ノ崎』と表記していたようです。
忍路湾内のやや西側には明治末期に住民の寄付で誘致した『北大臨海実験所』が記されています。
写真中央やや右下の赤い屋根で小洒落た別荘のような佇まいの建物が北海道大学忍路臨海実験所です。
さて、前回予告していた明治期の地図には『横泊』と記載されていたポロマイ岬南側の入り江ですが、戦後では『猫泊』と記載されています。
語源はアイヌ語由来で『ネトトマリ』=流木の溜まる場所を意味するそうですが、これが明治期にはどうして『横泊』と表記されているのか、原因は分かりませんでした。
『ヨコトマリ』は『ネコトマリ』と1字しか違いませんが、『ヨ』と『ネ』は母音から見ても間違いづらいように思われます。地図の作成にあたって『猫』と『横』の活字を拾い間違えた、という可能性もありそうです。
『猫泊』自体が現在も残っているものの非常にマイナーな地名ですので、このあたりの事情を詳らかにする資料は見当たっていません。
戦後復興に伴って、忍路では港湾の整備も進められてゆきます。
昭和26年から昭和27年にかけて忍路漁港の外郭施設が整備されます。
昭和29年にはニシンの産卵群である群来(くき)が来て豊漁であったりということもあったようですが、その後も年々漁獲量は落ち込んでいったようです。
昭和33年には忍路郡塩谷村が小樽市へ編入されて忍路郡が消滅して、かつての忍路郡忍路村は小樽市字忍路となります。
この合併に当たって塩谷村からは小樽市に対して合併条件に関する様々な条項が陳情書にまとめられていたことは『小樽西部の中心地『塩谷』の歴史 ~合併から現代まで~』で紹介した通りですが、その項目の中に塩谷港の拡張は含まれていた一方で、忍路港の整備・拡張については私が見た限りでは触れられていませんでした。
ただ、前述の外郭の整備に加えて昭和35年にも外郭施設が整備されており、その後も昭和50年代まで断続的に整備が進んでいったことから、忍路港の整備は合併前から既に既定路線であったのかもしれません。
さて、昭和30年代後半の航空写真を見てゆきましょう。
前掲の地形図とさほど年数が経過していない航空写真ですが、やはり写真で見た場合には人家や畑の状況が分かりやすいですね。
忍路は2つの岬からなる半島で岸壁が多く、高低差もある為、畑を作るのは困難でありますが、それでも傾斜面にかろうじて畑を作っている様子が伺えます。
こちらは小樽市への合併直前の昭和32年に発行された本稿の貴重な資料でもある『忍路郡郷土史』に掲載された『現在の忍路』です。
忍路湾の北西側から小樽方面へ向かって撮影したものと思われますが、人家の密度はやや低いように見受けられます。
比較的似たアングルでの写真ですが、一般的な戸建住宅も立ち並んでいるほか、三角屋根のロッジのような広めの建物も目立っています。確証はありませんが別荘や保養所なのではないかと考えています。
中心市街地であれば、建物が密集していて利便施設がたくさんある事がメリットですが、別荘や保養所としては、建物の密度が低く、緑が多く、海が綺麗だという事の方がずっと重要ですし、生活の本拠とする場合でも、リモートワークなどの普及で自然環境を優先する方にとっては札幌・小樽近郊のエリアの中では最良の選択肢の一つと言えるかもしれません。
次回は小樽市に合併されたかつての忍路村が小樽市の一部として現代に至るまでどのような歩みをしてきたのかを紹介する予定です。
当記事は⼩樽・後志エリアでインターネットに掲載されていない物件情報や、地域ならではの不動産の売却・購⼊・賃貸・管理に関するノウハウを有するイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
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細井 全
【参考文献】
◇塩谷村役場『忍路郡郷土史』昭和32年
◇竹内荘七『忍路郡塩谷村鮏漁場実測図』明治29年
◇須磨正敏『ヲショロ場所をめぐる人々』平成元年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(旧版)昭和18年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(旧版)昭和19年
◇小樽市役所『小樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇小樽市役所『小樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇小樽市役所『小樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇小樽市役所『小樽市史 第7巻 行政編(上)』(新版)平成5年
◇小樽市役所『小樽市史 第8巻 行政編(中)』(新版)平成6年
◇小樽市役所『小樽市史 第9巻 行政編(下)』(新版)平成7年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇小樽市役所『小樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇小樽市『未来のために=山田市政3期12年をふりかえって=』平成24年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『余市』明治29年測量、明治43年部分修正
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽西部』昭和28年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『余市』昭和33年
◇国土地理院 航空写真各種
◇小樽観光大学校『おたる案内人 検定試験公式ガイドブック』平成18年
◇佐藤圭樹『小樽散歩案内』平成23年
◇永田方正『北海道蝦夷語地名解』明治24年
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