2020.07.06郷土誌から読み解く地域歴史情報
小樽駅はどのような経緯で小樽の中心街となったのか ~昭和・平成編~
さて、前回は現在の小樽駅が、当初、別の行政区画にあり小樽という地名ではなかったところから始まり、紆余曲折を経て小樽の中心街となっていった経緯を説明してゆきました。
駅名は20年の間に小樽中央→稲穂→高島→中央小樽→小樽と目まぐるしく変わるうち、戦前戦後の小樽は北海道の玄関口として貿易・金融の街として繁栄します。
参考として前回も示した大正8年版地形図を示します。
昭和初期は第二次世界大戦の影響もあり社会的トピックも少なく、資料も少なくなっていますが、そのような情勢下にも関わらず昭和9年には小樽駅が北海道内初のコンクリート造の三代目駅舎となります。
これは現存する駅舎で、平成末期の段階でなんと築85年という事です。
長く残っている建物というのは趣深いものがあります。
戦後、昭和25年の内務省地理調査所発行の地形図を見てみましょう。
駅名の変更に伴ってこれまでの『ちゅうあうをたる』から『おたる』駅に書き改められているほか、埋め立てによって埠頭が建設され、海岸線が遠くなっている事が分かりますね。
この頃はまだ健在であった手宮線には『色内』駅が設置されています。
敗戦によって北海道各地では樺太、朝鮮、台湾などからの引揚者を受け入れる必要が生じ、住宅不足が叫ばれましたが、小樽市においては特に海沿いの岸壁で平地が少なく、郊外に公営住宅が建設されます。
戦後には石炭から石油へのエネルギー革命によって、石炭の積出港としての役割が大幅に縮小してしまいます。
また、その他の貿易の面でもそれまでは日本領であった樺太がソ連領となった為に樺太との貿易取引高が減少し、更には国内との海運についても小樽から室蘭・苫小牧の太平洋ルートへ移行してしまい、海運の衰えはすなわち金融街としての役割を失わせることにも繋がってしまいます。
航空写真になると密集した市街地の様子がよく分かりますが、前述したように小樽には平地が少なく、また明治期から発展した市街であり、ひとつひとつの土地区画が小さく、狭い道路が多い為、現在においても再開発が行ないにくいというネックを抱えることになってしまいました。
昭和30年頃にはこれまでに述べた戦後の小樽の衰退要因から低迷が始まってゆきますが、これと並行して、戦後の自動車の普及=モータリゼーションによる交通渋滞やバスの運用などにも問題があったようで三代目小樽駅舎には度々建て替え議論がなされ、その中でロータリーの必要性なども語られているようです。
一応、小樽駅と南小樽駅の間の線路は昭和39年に高架化され、交通渋滞は多少ですが緩和されます。
小樽駅三代目駅舎は当時の段階で築40年程度を経過していますから不便も頷けますが、用地買収や予算の問題があり、遅々として進まないまま築80年以上を超えてしまっています。
多少不便とはいえ、雰囲気のある駅舎で私は割と好きなのですが…
まぁ、駅舎は同じとはいえ、昭和30~40年代には、駅前の歩行者部分や自動車部分が明確に分けられておらず、かなり雑然とした状況であったようです。
昭和46年当時、小樽駅から小樽中央通りに向かって撮影された写真です。
バスやタクシー、自家用車や工事車両などが無規則に駐車されているほか、小規模な建物が多く立ち並んでいることが分かります。
また、コカ・コーラやニッカウヰスキー、キリンビールなどの定番の看板に交じって、『三馬のゴム靴』『トーヨーゴム』などの小樽らしい看板も見えますね。
昭和40年代にはこの駅前の整備が行なわれたほか、駅前の雑然とした街並みと狭い道路を改善する為、昭和44年に施行された新法『都市再開発法』の指定を受けて再開発を実施します。
ちなみに小樽駅前再開発事業は都市再開発法の最初の事例であり、他に大阪市阿倍野、宝塚市、桑名市の3つの自治体が第一号の事業として認可を受けました。
駅前を整理し、小規模な建物から比較的大規模な駅前第1ビル~第3ビルを建設するという整備計画です。
下の写真左手側に見える昭和49年に竣工した小樽駅前第1ビルには中央バスの待合所があるほか、紀伊国屋書店、かま栄などがテナントとして入っています。
翌昭和50年、写真右手に見える小樽駅前第2ビルには新築当初から入居している長崎屋を中心に小規模テナントが入居している他、平成19年に長崎屋がドン・キホーテによって買収されたことで3階はドン・キホーテ小樽店となっています。
昭和51年には第2ビルの小樽中央通りの向かいに小樽駅前第3ビルが竣工し、その大部分は小樽国際ホテルが使用していました。
詳細は後述しますが、再開発事業当初の第3ビルについては現存していない為、私が撮影した写真は存在していません。(当時の建物の写真はのちに掲載します。)
こちらは昭和50年前後の航空写真ですが、以前の地形図や航空写真と比較すると、駅前が若干すっきりしていることが分かりますね。
また、駅前再開発と時を同じくする昭和41年、前述の土地不足や交通渋滞などの影響もあり、運河の埋め立てや歴史的建造物の解体を含む道路整備が計画されます。
埋め立てによって築造された埠頭によって運河は既に海運での役割を終え、かつ、清掃が行き届かず汚泥にまみれ悪臭を放ち、石造りの歴史的建造物についても普段使いをするにはランニングコストがかかる不便な建物です。
ただでさえ衰退気味の小樽において、歴史よりも再開発を優先するのはやむを得ない判断であったと思われますが、これに反対する市民が昭和48年に『小樽運河を守る会』を設立して反対運動を展開。
この運動は大きな広がりを見せ、解決に十数年を要することとなり、昭和61年にようやく現在の形―つまり、運河を半分埋立て、散策路や公園を整備し、歴史的建造物についても保存する―形の決着をみます。
この運動が全国的な知名度を得て、また運河や歴史的建造物が綺麗に整備されたことによって、昭和末期から平成初期にかけて小樽は観光地として息を吹き返すことになるのです。
さて、このようにバブル前後の観光振興によって、小樽は観光地としての地位を確立してゆき、昨今は外国人観光客も多く訪れるようになっていますが、とかく不況に弱いのが観光産業。
バブル以降もアジア通貨危機、リーマンショック、コロナショックと不況の波が来るたびに苦境が訪れます。
平成14年には、小樽国際ホテルが営業停止となり、小樽駅前第3ビルはその後長らく幽霊ビルという汚名を着ることとなってしまいます。(まぁ、小樽国際ホテルについては営業開始の昭和50年頃から既に金銭問題や経営問題が噴出していたのですが…)
小樽市は駅前のビルが適正に管理されていない状況に危機感を抱き、何かしらの対応を取ることを画策しますが、結果はいずれもうまくゆかず、結局、平成20年には旧:小樽駅前第3ビルは解体され、平成21年には跡地にホテル『ドーミーイン』とダイワハウスの分譲マンション『プレミスト小樽ステーションタワー』のツインタワーが新しい小樽駅前第3ビルとして建設されます。
この航空写真は第3ビルが建て替わる前の状態を写したもので、建て替えに伴って第2ビルと第3ビルを結ぶ歩道橋は撤去されてしまいました。
余談ですが、平成15年には小樽駅開業100年を記念して小樽駅4番ホームが裕次郎ホームと名付けられたようです。
石原裕次郎のパネルやホーム番号表示の『4』がヨットの帆を模したものになっていたり、照明がガス灯調のものとなっており、観光客を喜ばせているようです。
当記事は平成30年、小樽市内2店舗目として小樽駅前にイエステーション小樽駅前店を開業し、数年中に小樽市内への追加出店を目指すイエステーション:北章宅建株式会社のスポンサードコンテンツです。
⼩樽・後志エリアの不動産に関するご相談はイエステーション⼩樽・余市・手稲・⽯狩の各店舗への依頼をお薦めします。
細井 全
【参考文献】
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第1巻』(新版)昭和33年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第2巻』(新版)昭和36年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第3巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第4巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第5巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第6巻』(新版)昭和56年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第7巻 ⾏政編(上)』(新版)平成5年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第8巻 ⾏政編(中)』(新版)平成6年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第9巻 ⾏政編(下)』(新版)平成7年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 社会経済編』(新版)平成12年
◇⼩樽市役所『⼩樽市史 第10巻 文化編』(新版)平成12年
◇⼩樽市『未来のために=⼭⽥市政3期12年をふりかえって=』平成24年
◇小樽港湾建設事務所『写真集小樽築港100年のあゆみ』平成9年
◇大日本帝国陸地測量部二万五千分の一地形図『小樽西部』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部二万五千分の一地形図『小樽東部』大正5年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽西部』昭和25年
◇内務省地理調査所二万五千分の一地形図『小樽東部』昭和25年
◇国土地理院 航空写真各種
このブログへのお問い合わせは
小樽店 小林 康之不動産業に携わる者として公正で安全な取引を心がけ、お客様の立場に立って最善の方法をご提案いたします。 一緒に住まいの華を咲かせましょう。