2020.11.25郷土誌から読み解く地域歴史情報

”美しき唄のまち”『美唄』の歴史 ~昭和後期・平成編~

さて、昭和20年代にいわゆる『外地』から引き揚げて来た引揚者の人々は、炭鉱労働に携わったり、新たに原野の開拓をして農業に取り組んだりという形で美唄に貢献し、昭和25年には美唄市へ昇格、昭和31年4月には人口のピークを迎えます。

昭和60年代の美唄の地図

人口のピーク、という事はその年を境に人口が減少に転じているということでありますが、炭鉱と農業の両面が栄えた美唄において、人口減少が生じるきっかけは何だったのでしょうか。
ピーク時の人口9万2150人のうち約6万人が炭鉱労働者であったとの事ですが、この年を境に人口が減少した明確な要因というのは、各種の資料でも明確には記載されていません。

まことしやかに語られる話として、この後、昭和30年代後半から昭和40年代にかけて、石炭から石油へのエネルギー革命の進展によって炭鉱が次々閉山されていった、というものがありますが、果たしてそれが人口減少とイコールなのでしょうか。
もう少し突っ込んで資料を漁ってみましょう。

美唄の人口と出炭量の推移

こちらは美唄市史の187ページに記載されている美唄の総人口(各年10月1日時点)と474ページに記載されている美唄の出炭量をグラフ化したものです。
先に総人口のピークは昭和31年4月9万2150人と記しましたが、グラフの総人口に関しては、10月1日時点の統計値となっており、各年ベースのピークは昭和29年9万1638人、次いで昭和33年9万1424人となっています。一年のうちでも人口が流動的であったことが分かりますね。
昭和27年から昭和34年までは概ね8万人台後半~9万人程度で推移していますから、横ばいの状態であると言えるでしょう。

 

グラフの青線で記した出炭量とは石炭の産出量の事ですが、人口がピークを記録した昭和31年以降も石炭の生産は伸びており、戦後においてそのピークは昭和35年となっています。
前述の通り、エネルギ―革命の本格化は昭和30年代後半の話であって、エネルギー革命イコール美唄の人口減少と言うには、少し時期がずれていると言わざるを得ません。
前掲のグラフの出炭量の推移もそれを物語っていると言えると考えます。

 

そもそも人口ピークと同年の昭和31年10月1日時点での人口は9万952人と4月時点と298人の変動があり、この時代でもかなり人口が流動的であったことが分かります。
単純に、人口減少に転じた年だけではなく、俯瞰的にデータを見てゆかなければならないという事ですね。

美唄の昭和45年の写真

多少は時期のズレがあるものの、その後は石油へのエネルギー革命が進み、昭和38年には美唄南部に所在する美唄炭鉱閉山
三井美唄炭礦は南美唄支線に接続していましたが、南美唄支線はこの時点ではまだ残っていました。

 

昭和40年前後にはぼつぼつと炭鉱の縮小や閉山が進んでゆきますが、その中でも最も大きな規模を誇った美唄鉱山昭和47年閉山し、それに伴い東美唄へと延びていた美唄鉄道が廃止されます。

閉山になったとはいえ、炭鉱の名残で多くの定住者が存在している中で、鉄道を突然廃止するというのでは住民の生活が立ち行かなくなってしまいますから、通常はある程度廃止までの猶予があるものですが、この時点でそれなりに規模が縮小していたのか、同年に運航を開始した美唄市営バスへの切り替えで糊口を凌いだようです。

昭和47年、三美唄炭鉱の閉山後も残されていた南美唄支線の旅客取り扱いが停止し、翌昭和48年には貨物の取り扱いも廃止となり、完全に廃止となります。
三菱美唄鉱山に続いて中小規模の炭鉱も次々と閉山してゆき、炭鉱の街としての美唄の歴史は昭和40年代でほぼ幕を閉じることとなります。
現在も営業している炭鉱として唯一、三菱グループの北菱産業埠頭美唄炭鉱が存在します。昨今は原油価格の高騰によって発電のための石炭需要も高まっているようですが、現在の美唄の産業構成を考えれば炭鉱の街とまでは言えないでしょう。

昭和50年代の航空写真

昭和50年代の航空写真です。複数の時期に渡って撮影された写真を組み合わせて作成されたものですので、パッチワークのように色彩がまだらになっています。
国道12号線の両脇に商店街が発達している他には、郊外にも集合住宅や戸建が規則的に並んでいます。
こういった規則的な建物の並びは美唄市や北海道が設置した公営住宅・・・いわゆる団地や、北海道住宅供給公社のモデル住宅の特徴と言えるでしょう。

コンバインでの収穫作業

一方で美唄市西部の農村部でも農業の機械化が進んで効率が上がり、美唄は穀倉地帯として役割を担うことになります。

 

時代は若干前後しますが昭和41年には美唄全域で大規模な水害が発生します。

昭和後期の美唄の洪水

この水害を受け、昭和44年から美唄ダムの建設が始まりますが、完成したのは昭和57年と13年という非常に長期間を要した工事だったようです。

美唄ダムの石看板

美唄ダムの貯水池

美唄ダムは治水を目的としたものであると共に、炭鉱の街からの産業構造の転換の為に新設が予定されていた『空知中核工業団地』・・・通称『そらち工業団地』に安定した上水道供給を行うことも目的とされていました。

空知中核工業団地の地図

空知中核工業団地美唄市と奈井江町に跨って所在しており、曰く『道内最大の内陸型工業団地』との事です。
”内陸型”という枕詞がありますが、これは石狩新港を含めると最大とは言えない、という事なのではないかと思われます。

空知中核工業団地は昭和59年から分譲が始まっており、第1~第5の鉱区が存在し、現在も分譲区画があります。

空知中核工業団地の写真

続いて、この頃の国道12号線付近の様子を見てみましょう。

昭和時代の美唄の国道

昭和50年代はモータリゼーションが更に進行し、国道12号線の交通量もかなり増えている様子が伺えますね。国道の両脇には数多くの看板が掲出されていますが、特に『たくぎん』・・・北海道拓殖銀行の看板が目を引きます。

 

さて、この頃の美唄中心部はどのようになっているのでしょうか、昭和60年代の国土地理院5万分の1地形図を見てみましょう。
前回と同様に画像の上半分が『砂川』の昭和62年版、下半分は『岩見沢』昭和63年版を合成したものです。

昭和60年代の砂川と岩見沢の地図

先に昭和50年代の航空写真を示し、パッチワークのようになっていると紹介しましたが、国土地理院の整理が間に合っていないのか、これ以降もまともな遠景航空写真の画像は公開されていません。
撮影した写真素材自体が乏しいという事もあるでしょうが、国土地理院地図に重ね合わせるタイプの航空写真がパッチワークとなっており、もう少しなんとかならないものか・・・と思うのですが、税金で整備しているものですから贅沢も言えません。
多少先端的なソフトを利活用するなりで、もう少し充実させる事は出来ると思うんですけどね。

 

昭和末期の国土地理院地形図については、ほぼ現在と近しい状態にまでなっており、細かく解説をする部分は見当たりません。

 

ここからは平成に入ってゆきますが、バブル崩壊後の社会の潮流もあり、少し駆け足の内容になってしまいますことはご容赦下さい。

 

平成4年、美唄出身の世界的彫刻家であるところの安田侃氏の作品を展示するアルテピアッツァ美唄が開設し、現在でも美唄の代表的な観光地として賑わっています。
これは昭和63年に設置された作品収蔵庫を整備して一般公開したものです。

安田侃氏の彫刻

安田侃氏の彫刻と家族

平成9年には空知中核工業団地の西脇に農道空港として中空知地区農道離着陸場、愛称『スカイポート美唄』が開港し、グライダーなどの小型機の練習場やイベント会場として利用されています。

 

そして、炭鉱の衰退に伴って、美唄は明治以来の主産業であった稲作に注力していましたが、特に『平成』はまさに北海道米勃興の時代であったと言えるでしょう。
平成元年に登場した良食美米『きらら397』を始めとして、『ほしのゆめ』そして美唄市農協の現在の主力商品である『ななつぼし』『おぼろづき』など評価の高い品種が登場します。
それに合わせ、峰延農協が平成10年『稲いなほの里ライスステーション』、美唄市農協が平成11年『らいす工房びばい』平成12年『雪蔵工房』を開設し、米の近代的な品質管理を行い、ブランド化を行なってゆきます。

美唄のお米

また、平成14年には美唄市西部にある宮島沼がマガンの国内で13番目のラムサール条約登録地となり、水鳥の保護のための湿地として管理されることとなりました。
毎年の春(4月下旬)と秋(9月下旬)には、『美唄市の鳥』であるマガンが渡りの中継地として数万羽単位で飛来するそうです。

美唄に飛来するたくさんの渡り鳥

同じく平成14年には著しく老朽化していた美唄駅が新駅舎となり、橋上化されたことで利便性が高まりました。

新しい美唄駅

また、同じく平成14年には、美唄市営バス美唄市バスに改称して運営が第三セクター化して現在に至ります。
これには前年の平成13年に総理大臣に就任した小泉純一郎氏による行政改革の影響もあったのかもしれませんが、その辺りの事情について詳しく書いた資料は見当たりませんでした。

 

さて、戦後の人口ピーク時から現代に至るまでの美唄の歴史を紹介してゆきましたが、最後には総まとめとして例によって、国土地理院が公開する航空写真を見てゆきましょうか。

美唄の平成の複合航空写真

…(;´Д`) はい、前述した通りのパッチワークです。
こちらは国土地理院の運営するサイト電子国土Webの『全国最新写真(シームレス)』から抜粋しましたが、なんと1970年代の航空写真も混ざっています。

多くの地域では2000年代の航空写真を繋ぎ合わせたものが表示されるのですが、まだまだこういった未整備の部分があるのは、やむを得ない部分でしょう。

 

前掲のパッチワーク写真を使ってゆくのも気が進みませんでしたので、同じく国土地理院が公開する『単写真』と呼ばれる航空写真を私の方で繋ぎ合わせたものがこちらです。

美唄の平成21年の航空写真

若干、つなぎ目が不安定な箇所もなくはありませんが、平成21年撮影の航空写真です。
これまでの地形図や航空写真には表れていませんでしたが、画像の左側には高速道路である道央自動車道美唄インターチェンジが記載されています。
美唄インターチェンジ自体は昭和62年に開設したものですが、前掲の昭和62年・昭和63年発行の地形図には記載がなく、道央自動車道が点線で記されているのみです。

 

こうして空から眺めると、元々が屯田兵の入植地であったこともあってか、規則的な街並みを形成しており、また、緑がとても多いことが分かりますね。

 

さて、『明治編』『大正・戦前編』『昭和後期・平成編』と3記事に渡って美唄の歴史を時系列に沿って紹介をして参りましたが、如何だったでしょうか。
地域の歴史というのは、このインターネット全盛の時代において逆にアクセスのしづらい情報になっていると言えます。
かつては郷土史などでまとめられた資料はアナログ媒体からデジタル化されないばかりか、ある時点で情報が止まってしまい、また、個別のデジタル情報についても一貫した理念を持たずにまとまりのないデータとして散逸化しています。
市町村も北海道も、年表を掲載する程度のことは行なっても、積極的に地域の歴史を一定のまとまりのある資料として編纂・公開することはしなくなっています。
そのような中で、今回、あまり取り上げられることのない美唄の歴史についてある程度網羅的な幅を持ってまとめられたことには、価値があるものと考えています。

 

美唄の歴史を扱う数少ないコンテンツである当記事は『イエステーション:北章宅建 美唄ダム』のネーミングライツと同様にイエステーション:北章宅建のスポンサーでお送り致しました。
空知地方、特に美唄市の不動産の売却・購⼊・賃貸・管理についてのご相談はイエステーション美唄店をはじめとするイエステーション各店舗への依頼をお薦めします。

細井 全

【参考文献】
◇美唄市役所『美唄市史』昭和45年
◇美唄市『美唄市百年史 通史編』平成3年
◇美唄市『美唄市百年史 資料編』平成3年
◇美唄市『美唄由来雑記』平成13年
◇美唄市『写真で見る美唄の20世紀』平成13年
◇北海道屯田倶楽部『歴史写真集屯田兵』平成元年
◇弥永 芳子『北海道の鳥瞰図』平成23年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『奈井江』明治29年測量、明治42年部分修正
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『岩見沢』大正5年
◇大日本帝国陸地測量部五万分の一地形図『砂川』大正5年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『岩見沢』昭和26年
◇内務省地理調査所五万分の一地形図『砂川』昭和23年
◇国土地理院五万分の一地形図『岩見沢』昭和63年
◇国土地理院五万分の一地形図『砂川』昭和62年
◇炭鉄港推進協議会『炭鉄港 美唄 歴史をめぐる旅物語』令和元年
◇北海道開発局 石狩川豪雨災害(昭和56年8月)を振り返るパネル展
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